読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ『ラ・フォンテーヌの寓話』(訳:窪田般彌, 沖積舎 2006)

ラ・フォンテーヌの寓話239篇からドレの挿絵のある86篇を選んで訳出した一冊。同じくドレ挿絵のラ・フォンテーヌの寓話の現代版訳書、谷口江里也翻案・解説の現代版『ラ・フォンテーヌの寓話 ドレの寓話集』もあるが、窪田般彌の訳書は17世紀の原文をもとにしたもので、現代的な感覚からすれば、ちょっと残酷で無慈悲。救いようのない場合もあるし、可能性がないことはないというだけのケース提示の話もあって、けっこう無責任ではあるが、その分リアリティがあるのも確か。時として最低限腑に落ちるような理路をたどっていない話で終わっているところが逆に教訓的に響く。常には正しくないような教訓もあるというところが心をちょっとざわつかせて、記憶しておくようはたらかせているようだ。

ドレがラ・フォンテーヌの寓話に挿絵を描いたのは1867年、35歳の時。すでに『神曲』や『聖書』などの大作を発表して人気作家となった後の作品集であるが、訳者窪田般彌の見立てでは、ドレ最良の作品からは外れる仕事とされている。

確かに細部にいたるまでの緻密さには欠けるシリーズではあるが、逆に作家の創作における緩急、筆触、基本的技量などがよく感じ取れる仕事で、息詰まることなく眺めていられるのが素晴らしい。画家の仕事の現場に心を開いて受け入れてもらえたような気安さと、心地よさを残す程度に抑えられた技巧のふくよかさ柔らかさがある。

ラ・フォンテーヌの寓話の教訓は効くかどうかわからないし、ドレの絵も強烈な印象で記憶に残るようなものではないとは思うのだが、時々ふりかえってみるのもいいように感じる一冊ではある。

時代を超えた古典の力であるのだろう。


ジャン・ド・ラ・フォンテーヌ
1621 - 1695

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ギュスターヴ・ドレ
1832 - 1883

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窪田般彌
1926 - 2003

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谷口江里也『ギュスターヴ・ドレとの対話』(未知谷 2022)

スペイン文化に造詣が深く現代日本語圏におけるギュスターヴ・ドレの伝道者ともいえる谷口江里也によるギュスターヴ・ドレへの手紙形式の散文頌歌。ドレが五歳の時に描いた『ラ・フォンテーヌの寓話』のなかの「アリとキリギリス(セミ)」の最初期の絵からはじまり、51歳で亡くなるまでに物した膨大且つ繊細な業績の数々を、基本的には年代を追いながら跡づけていく、愛にあふれる書物。

142点の鮮明なドレの木口木版画の図版とともに写真などの新しい複製技術が発達しながら大衆消費社会が爆発的に広がっていった時代の寵児たる芸術家の姿を描きだしているところは注目に値する。


描きすぎて場面を構成する人物や取るにたらない事物までもがそれぞれ鮮明すぎるため、画面を構成するヒエラルキーがぼやけてしまって物語のバランスが崩れてしまっているといるということは否めない。整いすぎているがために生じている、劇的構成が望まれる場面でのアンバランスを感じる。主題と背景とのメリハリ、コントラストが弱いために、絵の焦点が複数化されたうえに相殺されてしまい、絵の主題が平板化されてしまっている。部分的に近づいて見れば個々に最高度の表現であるにも関わらず、総体的に見ると表現のエネルギーが分散され、互いに減算するように力がはたらいてしまっているところに一枚の絵としての弱さがある。

ただそれは、ドレによって表現された世界を、版木もしくは刷られた版画によって、外側から鑑賞した時に生じる感覚で、外側から鑑賞していた自分自身が、版画の世界内に飛び込んで、どこかの地点からその世界を見たと仮定すると、たちまち世界はリアルなものとなり、自分自身も彫刻刀によって創り出された描線と陰影のみからなる存在、それでいてその世界での十全な存在であると感じるようになる不思議さをも持っている。

ドレが描くことでより可視化され現実化した世界は、多くの人間にとって受け入れやすく整えられたものではあったが、人並外れた優れた技巧によって生み出された整いすぎた表現は、見る者にどこかしら疎遠なところを残さずにはいない。あまりにも正確、あまりにも克明、あまりにも理知的であるがゆえに、救いようがなく、容易な希望や解決策を認めない画だ。

技巧的に最善最高で、描かれた対象としても最も現実的で最も情動的な作品に部類する『ロンドン巡礼』は、カール・マルクスが『資本論』を執筆した時代の世界最先端の資本主義都市ロンドンの闇の部分を記録した稀有な仕事ではあるが、やはりどこかしら冷たいというか、描写優位の冷徹さ、資料的価値観優位の素っ気なさがある。リアルであるがその場面を見ている人の視線は超越的で容赦がなく、未来への救いが見えず、現状をただ認識するほかはない。ただ、目を背けず、事態から逃げずに、あるがままのところからはじめるしかないということが静かに(やるせなさと憤りとともに)伝えられている。

うますぎる技術は、時に制作者の思いを超えて技巧の側に目を向けさせてしまいがちではあるが、リアリティを積み重ねた表現が現時点で持っている均衡状態の次に現われて要請されるであろう事態を予感しつつ対峙することが、ドレを鑑賞する場合には必要であるようにも思う。

前景と背景と主題が同じ粒度、同じ精度で描かれていると、絵画のみに対峙する場合に鑑賞者としては戸惑う場合が多い。ドレの作品の多くは古典や聖典の挿絵として創られたもので、本文とともに鑑賞する場合にはおそらく需要者の感覚を乱すようにはたらくことはほとんどないと思われる。画面に描かれた細部が過剰となり、非現実の疎隔感が生じてくるのは、絵の物質感・現実感がテクスト以上のものを語りの遠近法を超えて明瞭に示すようになってしまっているためであるようだ。描き手の描線の個性的なタッチが残るような素描的な作品にくらべれば、抑制のきいた均一の描線で構成された作品は、感情の世界を超越した理知的な世界判断を要請する世界を構成している。文章がある場合には文章優位で、独立した描画世界としては鑑賞しないでいる挿絵も、挿絵作家の作品として単独で鑑賞する場合には、描かれた場面の主題以上のものが見つづけていく分だけ見えてしまってくる。よりよく描かれている作品であればあるだけテクスト本文とは直接的には関係を持たない余計な画像が見えてくる。

基本的には一般読者を超えるテキスト解釈とテキスト補完を挿画家が行って(作者存命の場合には許諾を得てテキストとともに掲載して)いることなので、読者は著者創作活動の批評の一環として受け止めればよい。挿絵としての評価の場合はテキストとの兼ね合いで行えばよく、挿絵をテキストと分離して単独作品として見る場合には、創作経緯のもとに表現の質を判断すればよい。

違いが分からなければとりあえず比較あるのみ。

美しすぎて非現実的な疎隔感のあるドレのいくつかの作品に共通しているのは、(主観的なものを含めて)遠近法を無視した常に明瞭な世界を描きだしているケースに当たっているような印象がある。画面全体に焦点が合うはずはなく、どこか朦朧な部分はあるはずだ。細部まで克明に描かれている場合も、細部にどれほどリアリティがあり破綻なしに画面が構成されていても、全体的な印象としては親密さに欠けてしまうことが多い。

精緻さと親密さ、外観の写実性とリアリティ。超絶技巧をもって世を渡った人の両傾向の作品が、創作物に対する人の受容と応答のいくつかのパターンを教えてくれているようで、興味は尽きない。テキストと挿絵との関係性の最良の釣り合いについても提供されている多くのケースから色々考えさせられる。

また、ドレが残した作品の現代における最良の享受方法についても本書はサンプルを提供していて、ドレの『神曲』の版画をロックのライブで大画面にテキストと混合して投影したときの興奮を紹介していたりもする。私の印象では、ドレの版画は枠を強調して画面に注視を促すことで情動への効果を高める外傷性的な作品であるよりも、描かれたものの枠を忘却し、描かれたものの内側に没入することで異世界感を我が事とすることによって影響するような感染性のある作品であるような印象を持っている。いま実現可能なテクノロジーではVRに親和性のある世界であるように思う。今現在の標準的な感官・感性に負けない表出の質と量を持った19世紀人の創作がひとまとまりあるということは、知っておいても無駄にはならないとも思う。

www.michitani.com

【目次】
第1話 ドレが描いた最初の絵
第2話 アリとキリギリス
第3話 才能と表現力の告知
第4話 自ら切り拓いた道
第5話 幻想の共有
第6話 ドレの肖像写真
第7話 私が見た最初のドレの絵
第8話 美しい悪魔
第9話 ペローの昔話
第10話 風刺画
第11話 ドン・キホーテ
第12話 ロマン主義
第13話 クロックミテーヌ伝説
第14話 神曲 煉獄篇、天国篇
第15話 ドレ的な表現1 ライティング
第16話 ドレ的な表現2 群像
第17話 ドレ的な表現3 近景と遠景
第18話 ドレ的な表現4 墨色の効果
第19話 ドレ的な表現5 ペン画のような版画表現
第20話 ドレ的な表現6 ハーフトーン
第21話 ドレ的な表現7 大空間
第22話 ロンドン
第23話 スペイン
第24話 ラブレー全集
第25話 老水夫行
第26話 1字軍の歴史
第27話 狂乱のオルランド
第28話 大鴉

【付箋箇所】
8, 10, 13, 14, 16, 21, 30, 35, 41, 42, 46, 52, 63, 65, 68, 70, 71, 77, 79, 81, 83, 90, 92, 96, 101, 107, 108, 116,118, 120,1, 131, 133, 136, 138, 143, 144, 147, 159, 161, 167, 175, 176, 178, 179, 180, 183, 189, 191, 206, 255, 236, 237, 238, 241, 242, 243, 248, 257, 266 
※著作本文よりもドレの絵をチェックしたケースのほうが多い

谷口江里也
1948 - 

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ギュスターヴ・ドレ
1832 - 1883

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メーテルランク詩集『温室』(原著 1889, 訳:杉本秀太郎 雪華社 1985)

『青い鳥』(1907)の作者モーリス・メーテルリンク(1862-1949)の20代の処女詩集。

己の魂が温室のなまあたたかい環境のなかで倦怠感をもって過ごしていることを歌い、清冽な外部の侵入をロマンティックに請い願うという構えがベースとなっている抒情詩集。

著者27歳までの抒情詩は、甘さと苦さが本来的な状態で書き留められているがために、嫌みなく何度でも繰り返し読めるような、古びがたく、感覚の鮮度を保った詩篇である。

基本的には誰からも積極的には許されないであろう生ぬるさのうちに生きる人間の精神の姿を克明に描き上げたところに作者の特異性が感じ取れる。

慌てずに味わうべきノーベル賞受賞の象徴派詩人の処女詩集

温室33篇に15の歌を付加

[温室33篇]
温室
祈祷
倦怠の室
誘惑
ガラスの鐘
謎の捧物
心の葉叢
火照った魂

疲弊
疲れた狩猟
疲弊した猛獣達
お祈り
虚ろな時
倦怠
施療院
夜のお祈り
冬の欲望
倦怠の輪舞曲
アーメン
釣鐘型潜水器
アクアリウム
焦熱のガラスレンズ
反映
幻影
祈祷
眼差し
待ちぼうけ
午後è-
温室の魂
心づもり
触れ心地
真夜中の魂

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モーリス・メーテルリンク
1862 - 1949

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杉本秀太郎
1931 - 2015

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ミシェル・レリス『ピカソ・ジャコメッティ・ベイコン』(編訳:岡谷公二 人文書院 1999)

写真の発明と普及により絵画が外観の忠実な再現を期待されなくなり絵画独自の表現を追求していく時代に、それぞれ独自のリアリティーを追求し、表現への真摯さと相反することのないユーモアと残酷の感覚をともに持ち続けた三人の偉大な画家、ピカソジャコメッティ・ベイコン。その三人それぞれと交流のあった特異な表現者である詩人ミシェル・レリスが親愛の情を込めて綴った作家論の集成。それぞれの作家の作品が発する強烈な存在感について、自身の密度の濃い文章で跡づけていくように表現している。とりわけ印象的なのはピカソのユーモアの感覚と芸術作品へのユーモアの導入についてチャップリンの名を挙げながら称賛しているところで、この指摘によってピカソの作品を見る私の目は少し変わったような気がする。
※おそらく原文に忠実な翻訳で、ダッシュによる補足説明などが多く、すこし注意しながら読まないと文意がとりづらいところもあるちょっと九会のある文章だった。

こちらは作家堀江敏幸による書評 

allreviews.jp


出版社のサイト:

 

www.jimbunshoin.co.jp

 

【付箋箇所】
22, 33, 42, 61, 68, 72, 77, 78, 91, 106, 136, 152, 161, 162, 179, 182, 182, 197, 200, 220, 228241, 257

ミシェル・レリス
1901 - 1990

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パブロ・ピカソ
1881 - 1973

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アルベルト・ジャコメッティ
1901 - 1966

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フランシス・ベーコン
1909 - 1992

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イェルク・ツィンマーマン『フランシス・ベイコン《磔刑》 暴力的な現実にたいする新しい見方』(原著 1986, 訳:五十嵐蕗子+五十嵐賢一 三元社 シリーズ(作品とコンテクスト) 2006)

フランシス・ベイコンの代表作《磔刑》(1965年, ミュンヘン)から作家の全体像に迫る一冊。ひとつの作品に焦点を決めて作家の本質に迫っていく著作は刺激的で学習効率もよく、概説書や入門書の次に読むものとして貴重な位置を占めている。実際に接したところでは商品としての間口が広いとは言えないので、商売上一般的には限定された顧客層向けの隙間商品で、気に入ってもらえたら同じシリーズ作品も認めたうえで読んてもらいたいというような意志が感じ取れる。

シリーズ本体定価は2200円。

基本的には、学校を含めた公共の図書館から評価されて広く長く読者を待つスタイルの本ではないかと思う。
※私も図書館からの利用者のひとりだが、公共の図書館に所蔵されている著作が人畜無害のものとばかりは言えず、かえって埋もれているような状態で生きながらえている不穏な熱源である可能性も高確率で存在している。

「ここに示されているのは、むしろ宗教と人間性の終焉である」

しかしながらそれを示す対象は人間であり人間性でしかないということも創り手であるフランシス・ベイコンは熟知しているということをも教えてくれる一冊となっている。

 

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【目次】
第1章 ぼくは何も語らない
第2章 きわめて統一のとれた明快な背景
第3章 すばらしく便利な架台
第4章 筆のひと掃きの行方
第5章 生か死かは、投げられたコインの裏表3
第6章 腕のまわりの赤
第7章 口の形はどのように変質してゆくのか
第8章 何かをするでもなく
第9章 絶対絵画へのアプローチ
第10章 人間の行動のひと幕
第11章 強調され、かつ孤立した位置
第12章 ストーリーを語らずに多くの人物を描く
第13章 くりかえし新しく創出されるリアリズム
訳者解説
(表題作品のカラー折込図版を巻末に収録)


【付箋箇所】
2, 16, 60, 72, 106

フランシス・ベーコン
1909 - 1992

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イェルク・ツィンマーマン
1946 - 

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デイヴィッド・シルヴェスター『フランシス・ベイコン・インタヴュー』(原著, 訳:小林等 ちくま学芸文庫 2018)

ジャコメッティのモデルをつとめ作家論を書いたことでも知られるイギリスの美術評論家・キュレーターであるデイヴィッド・シルヴェスターによるフランシス・ベイコンへの20年を超えるインタヴュー集成の書。訳者あとがきからも著者まえがきからも分かることだが録音テープをそのまま起こしたものではなく、著者による編集がかなり施された読み物として仕上がっている。そこには画家ベイコンの意向もだいぶ取り入れられているとおぼしく、絵画に図解的な物語性を求める姿勢を一貫して拒否する制作方針が常に強調されている。共同生活もしたことがあるほどの深い関係性を持った二人のあいだでのインタビュー記事なので、無批判かつ全面的に受け入れることには注意したほうがよいとは思えるが、20年以上にわたってベイコンが示しておきたかったであろう基本軸がぶれなく伝えられているところはしっかりと押さえておくべきところであると思う。ドゥルーズによって引用されている印象はあまり残ってはいないのだが、画家フランシス・ベイコンを語る時には頻繁に引用参照されている基本的文献である。

日本語版のちくま学芸文庫は、A6判文庫サイズは(105mm×148mm)で掲載図版は基本的にモノクロームではあるのだが、収録数は118点(参考他者図版含む)とかなり豊富で、しかもベイコンの基本的な表現形式は三幅対(トリプティック)であるため、比較的流通しているベイコンの画集よりもベイコンの作品をより広く知ることができる。現物のサイズ感や物質感や色彩は伝わらなくても、神経組織に直接訴えかけることを目指しているベイコンの志向性はかなりよく感じ取れる書物になっている。小さくて色彩のない図版であるがために、連続して図版のみを見返したりしているときにはかえって描かれているものの形態が持つ写実を超えた生命体としてのリアリティに接続されるような感覚が起こってもくる。

芸術におけるリアリティーとは、なにか非常に作為的なものであって、芸術家が再構築しなくてはならないものだと思います。そうでないと、単になにかをそのまま描き写した絵(イラストレーション)になってしまうでしょう。創造性がとても乏しいのです。
(インタヴュー8(1982年)より)

写真という技術が一般大衆層にも広まった社会での二次元芸術のあり方で、しかも抽象芸術や絵画デザイン化に向かわない具象表現の方向性を示し得た作家ならではの活力あふれる発言集。

www.chikumashobo.co.jp

【目次】
インタヴュー1(1962年)写実主義の崖っぷちを歩いているような絵を描きたいのです。
インタヴュー2(1966年)私のかねてからの願いは、大勢の人物が登場するにもかかわらず物語を伴わない絵を描きたいということなのです。
インタヴュー3(1971・73年)重要なのは隔たりです。絵が見る者から遠ざけられることです。
インタヴュー4(1974年)不公正は人生の本質だと思います。
インタヴュー5(1975年)自分は今ここにいるけど、存在しているのはほんの一瞬であって、壁にとまっている蠅のようにたちまちはたかれてしまうのだ、という事実をです。
インタヴュー6(1979年)「明日が来ては去り、また明日が来ては去り、そしてまた明日が来る」
インタヴュー7(1979年)偶然によって有機的な絵の土台が形成されると、自分の批評的な側面が活動を始め、その土台をさらに発展させていけるのです。
インタヴュー8(1982年)絵画にはもう自然主義的なリアリズムなどありえないのですから、新たなリアリズムを創造して、古いリアリズムを洗い流し、神経組織に直接伝わるようなものにするべきなのです。
インタヴュー9(1984年)芸術作品が残酷に見える

【付箋箇所】
7, 9, 13, 16, 18, 22, 24, 28, 30, 32, 33, 41, 44, 46, 58, 60, 62, 66, 70, 78, 80, 81, 82, 84, 88, 94, 112, 115, 127, 145, 152, 160, 168, 194, 201, 206, 217, 237, 240, 242, 246, 248, 271, 282

フランシス・ベーコン
1909 - 1992

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デイヴィッド・シルヴェスター
1924 - 2001

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小林等
1959 - 

サルトル×レヴィ『いまこそ、希望を』(原著 1980, 1991 訳:海老坂武 光文社古典新訳文庫 2019)

希望が見いだせたらいいなぁと思って手に取った著作。

サルトル最晩年の言葉。

対談相手のベニ・レヴィは毛派のプロレタリア左派指導者で、1973年に68歳で盲目となったサルトルの秘書として1974年から思考の相手をつとめた人物。

本対談はレヴィ主導で、サルトルの生涯を批判的に問い詰めていくところを、サルトルが愚直に折れることなく回答していくという体裁のもの。

愛なき批判者とも言えるようなレヴィの態度に対して、自己批判を促されているところには避けずに向き合い、そこからさらに自由と友愛による倫理的な人間の営みに希望を見出そうとしている姿勢には頭が下がる思いがした。
※発想的にはカントの『判断力批判』の終結部に近い感じを持った。

身体的には大変な状況であり、思考する環境としても厳しすぎる状況にありながら、なおかつ人間に対する希望を捨てていないサルトルという人間がいたこと自体が、いまでも小さな希望として消えていないのではないかと思えた一冊。

 

www.kotensinyaku.jp

【付箋箇所】
12, 22, 26, 47, 55, 72, 74, 77, 88, 118, 140, 155, 159

ジャン・ポール・サルトル
1905 - 1980

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ベニ・レヴィ
1945 - 2003

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海老坂武
1934 - 

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