読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ピーター・J・マクミラン『英語で味わう万葉集』(2019 文春新書)

アイルランド生まれの日本文学研究者で詩人の著者マクミラン万葉集から百首選んで英訳、現代語訳、解説を書いている。解説のレベルが高いので、高校や大学教養課程の講義用テキストとしても有効なのではないかと思いながら読んだ。言葉に対する感覚の鋭さは、さすが詩人、本人の作品も読みたくなった。

 

巻十一 2394 柿本人麻呂歌集

 

【原文】
朝影に 我(あ)が身はなりぬ 玉かきる ほのかに見えて 去(い)にし児(こ)故(ゆゑ)に

 

【解説】

「朝影」は、朝の弱い光で生じる幽かな細い影。ちらりと姿を見せて去った相手を悶々と思い続け、その朝影のように消え入りそうなほど痩せこけてしまった、と詠う。
 この歌は表記に特徴がある。第三~四句の原文は「玉垣入(たまかきる)風所見(ほのかにみえて)」で、「(玉垣の隙間から吹き入る風のように)ほんのわずかに見た」という意味合いを付与している。いわば歌全体の主文脈(ことばの文脈)に異文脈(文字の文脈)が重なり、一首の表現が重層化しているのだ。歌が全て漢字表記される『万葉集』ならではの表現手法と言えよう。(p181)

日本人の研究者でもこんなに鮮やかな解説は書けないのではないだろか、と賛嘆の声を上げたくなった。脱帽。

 

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ピーター・J・マクミラン
1959 -

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド「象徴作用」(1927)その2

象徴作用(Symbolism)すなわち記号による体系化作用という視点から語られる組織論。 

社会的象徴作用は、二重の意味をもっている。プラグマティックな面からいえば、それは諸個人を特定の行動へ向かわせる方向づけを意味し、また理論的な面からいえば、それが象徴が、雑多な群衆を円滑に運転して共同社会にまで組織化する力をどうして獲得するか、ということの情緒的な附随物を伴う漠然たる究局的理由をも意味するのである。
国家と軍隊との対照は、この原理を例示している。国家は軍隊よりも、より錯雑した事態を処理しているのである。この意味で国家は、よりルーズな組織団体なのであり、その人口の大部分のひとびとに対して公共の象徴作用が効力をもつためには、ほとんど同一視しうる事態がしばしば反復される、ということに頼ることはできない。しかし規律ある軍団は、特定の限度内でさまざまに変わる諸事態においては、一つの単位として行動するように訓練されている。しかし人間生活の多くの部分は、このような軍隊的規律の及ぶ範囲よりは逸脱している。軍団というものは、ある一種類の仕事のためにだけ訓練されるのであり、その結果、自動的行為により多くの信頼が置かれ、究局的な根拠に対する訴えにはより少しの信頼しか置かれなくなる。訓練された兵隊は、号令を受けると自動的に行動するのである。兵隊は音響に反応しているのであって、観念というものを排除してしまっている。これは反射行動なのだ。(『象徴作用』p83)

反射行動が必要な領域と熟慮と構築の観念が必要な領域を分離して、組織とその構成を考える視点を持っておく。軍隊的規律内でとる行動と思考の抑制と、個人的な逸脱がより許されている場面での行動と思考のチャレンジを、なるべく混ぜない。

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ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
市井三郎
1922 - 1989

湯川秀樹・梅棹忠夫『人間にとって科学とはなにか』

京風アレンジのきいた味わい深い科学系文化雑談。ふたりともにペシミスティック、且つ老荘思想を愛好する科学者で、その居心地の悪そうなポジションからの発言が、五〇年後の今でも強い浸透力を保っている。

普通の性能の自動車をつくることにくらべると、安全な自動車なり道路なり全部を含めて、それらの全体を安全なシステムにするということは、ずっとむつかしい。自動車のスピードを上げることより安全にすることの方がむつかしい。
そこがまた科学の困るところでもある。何かにともなう弊害がわかったときに、それを最小限度にする、ゼロに近くするということは、一般に手のかかることであり、金のかかることでもある。これは科学がわれわれの身近な世界へはねかえってきたときには、多かれ少なかれ出てくる話やけれども、これまた難儀なことです。(湯川 「人間にとって科学とはなにか」Ⅳ 科学とヒューマニズム p125)

私は人間は先の先まで全部見通して解決するだけの能力は、もっていないと思う。ここ十年もたせる、二十年もたせる、三十年もたせるというような、そういう方策で満足するほかない。ここ二、三十年は何とかいけるやろう。その先に、また新しい公害が出るかもしれんけれども、それは、もう少し先になってから考えるという生き方でやるほかないでしょう。一ぺんにズバッと未来永久にわたる解決などできそうもない。特に動物や植物も無機物も人間も含めた自然界の循環のバランスなんちゅう話になると、どんなに考えても読みきれんように、私には思える。(中略)文化の発達していない昔の人間は、あんまり自然を乱さずに来たんですね。しかし、もともと文化ちゅうものは、何らかの意味でそういう自然の状態を乱している。文化ちゅうものは、必ずそういう面をもっている。ある程度以上に進むと、乱し方が急にひどくなる。乱した結果、いろいろ変なことが起こる。(中略)もともとDDTがなかったら、われわれみんな困ったに違いない。それはしかし、自然のバランスを大いに乱しておったわけですね。乱してくれたので、人間は助かっとったわけや。いつも私が引き合いに出すのは、梅棹さんもさかんにいうておられる、老子とか荘子とかいう人ですが、彼等は自然に帰れ、と大昔にいうた。もっと後になると、西洋人でも日本人でも、同じようなことをいう人が、何人も出てくる。自然に帰れ、というたって、一体どこまで帰れるのか。おもしろい思想で、老荘は大好きやけれども、できへんですよ。(湯川 「科学と文化」 p261-262)

「難儀なことです」「できへんですよ」と日本のトップの知性でさえ言っていたことを心に留め置きながら、乱れに千切られないよう、なるべくいい道を選べるよう、足元くらいは確認できるようにしておきたい。


目次:
人間にとって科学とはなにか(1967)
 現代科学の性格と状況
 科学における認識と方法
 科学と価値体系
 科学とヒューマニズム
 科学の未来
増補
 現代を生きること―古都に住みついて(1962)
 科学の世界と非科学の世界(1965)
 科学と文化(1970)

人間にとって科学とはなにか|全集・その他|中央公論新社


湯川秀樹
1907 - 1981
梅棹忠夫
1920 - 2010

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド「象徴作用」(1927)その1

探求者たちの知的な言葉は通念に対する冷却剤として機能することがままある。普段使いされない言葉をもって通常意識されることのない思考の枠組みにゆさぶりをかける。哲学的な思考実験といわれるものの価値は、その異物性によるところが大きい。

岩石とは、分子に開放されているありとあらゆる活動に耽っているところの、さまざまな分子の社会にほかならない。わたしがこのような低次の社会形態に注意を喚起するのは、社会生活が高級な有機体の特異性である、という観念を払拭するためである。実際はその逆なのだ。生き残るという価値に関する限り、ほぼ八億年という過去の歴史をもつ一塊の岩石は、どのような国民が達成している短い寿命をも、はるかに超えているのである。生命の出現ということは、有機体の側における自由の要求として考えた方が、よりよく理解できるのであって、それは環境に縛られるということですっかり解釈しえないところの、自己の利益追求や活動を伴う個体性のある種の独立、ということの要求なのである。この感受性のある個体性が出現した直接的な結果は、社会というものの寿命を八億年から数百年、あるいは数十年にさえ減少してしまうことであった。(『象徴作用』p74)

岩石の社会と人間の社会、有機体の社会。通常は比較されないものを同一の思考平面上に乗せてみることで生まれる浮遊感、解体感。認知の枠組みのちょっとした死と再生。

 

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ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
市井三郎
1922 - 1989

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド「斉一性と偶然性」(1923)

イギリス経験論、ヒュームの系譜。習慣によって組み上げられ形作られる人間の様態について。

ヒュームは、ふつうはこうであるということに言及され、通常性(normality)の基準を提供したのであり、だから彼によれば、われわれの心に普通のことがくり返し与える衝撃が、自動的に、その基準にしたがう判断を産み出すのだ、と。実際のところ、ヒューム説の本質は、われわれが、ふつうはこうこうであるということを期待する、という点にある。(『象徴作用』所収「斉一性と偶然性」p113)

ふつうでないものに対面している場合には、処理の熱量は高まらざるを得ない。

知覚的対象とは、一つの現在の焦点であり、また将来へ流れ入る一つの力の場を意味するのである。この力の場は、知覚的対象によって行使される将来へのコントロールの、当の型を示すのだ。ということは、実際には、将来への関係における知覚的対象(そのもの)なのであり、反面、現在の焦点なのは、現在との関係における知覚的対象(そのもの)なのである。しかし現在なるものは、ある持続をもっている。われわれが観察するのは、えせ現在における作動中のコントロール(様態)なのである。(『象徴作用』所収「斉一性と偶然性」p127、太字は実際は傍点)

「将来へのコントロール」が作りあげられるためのコストは、量の多寡はあるにしても日々積みあげられている。
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ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
市井三郎
1922 - 1989

【謡曲を読む】新潮日本古典集成 伊藤正義校注『謡曲集 下』その5

「山姥」はすこし独特。一般的には、日常が崩れた後に浄化・沈静化されてまた日常に戻されるドラマ仕立てだが、山姥は神や精霊とは違って人間と地続きの世界に生きていながら別の日常、別の世界に住んでいる。人間からの移行、人間への移行もなさそうな不思議な存在の匂いがある。

【山姥】
女曲舞(百ま山姥)と都の男に語る真正山姥の自分語りと舞の劇。

そもそも山姥は 生所(ショオジョ)も知らず宿もなし ただ雲水(クモミズ)を便りにて 至らぬ山の奥もなし しかれば人間にあらずとて 隔つる雲の身を変へ 仮に自性(ジショオ)を変化(ヘンゲ)して 一念化生(イチネンケショオ)の鬼女となつて 目前に来れども 邪正(ジャショオ)一如と見る時は 色即是空そのままに 仏法あれば世法あり 煩悩あれば菩提あり 仏あれば衆生あり 衆生あれば山姥もあり 柳は緑 花は紅の色々 さて人間に遊ぶこと ある時は山賤(ヤマガツ)の 樵路(ショオロ)に通ふ花の蔭 休む重荷に肩を貸し 月もろともに山を出で 里まで送る折もあり

 
【夕顔】
光源氏への執心が残る夕顔の霊が旅僧に弔問を願い、成仏する劇。

不思議やさては宵の間の 山の端出でし月影の ほの見え初めしいふがおの 末葉の露の消えやすき 本(モト)の雫の世語りを かけて現はし給へるか 見給へここも自づから 気疎(ケオト)き秋の野らとなりて 池は水草に埋づもれて 古りたる松の蔭暗く また鳴き騒ぐ鳥の嗄声(カラコエ)身に沁みわたる折からを さも物凄く思ひ給ひし 心の水は濁り江に 引かれてかかる身となれども

 

【遊行柳】
西行に詠まれた柳の老いた精が、遊行の聖の念仏を受ける劇

清水寺のいにしへ 五色に見えし滝波を 尋ね上りし水上(ミナカミ)に 金色の光さす 朽木の柳忽ちに 揚柳(ヨオリウ)観音と現はれ 今に絶えせぬ跡とめて 利生あらたなる 歩みを運ぶ霊地なり

 

【湯谷】
病んだ老母のため熊野が花見の宴の同席を望む主の平宗盛から暇をかち得るまでの劇。

あら嬉しや尊やな これ観音の御利生なり これまでなりや嬉しやな これまでなりや嬉しやな かくて都に御供せば またもや御意の変はるべき ただこのままに御暇(オイトマ)と いふつけの鳥が鳴く 東路さして行く道の やがて休らふ逢坂の 関の戸ざしも心して あけ行く跡の山見えて 花を見捨つる雁(カリガネ)の それは越路われはまた 東に帰る名残かな 東に帰る名残かな

 

楊貴妃
楊貴妃の霊が玄宗皇帝の命を受けた方士に形見を渡す劇。

月の夜遊の羽衣(ウイ)の曲 そのかざしにて舞ひしとて また取りかざし さす袖の そよや霓裳羽衣(ゲイショオウイ)の曲 そよや霓裳羽衣(ゲイショオウイ)の曲 そぞろに濡るる袂かな なにごとも 夢幻の戯れや あわれ胡蝶の舞ならん

 

頼政
頼政の霊が戦いの果ての自害を旅僧に語る劇

さるほどに入り乱れ われもわれもと戦へば 頼政が頼みつる 兄弟の者も討たれければ 今はなにかを期(ゴ)すべきと ただ一筋に老武者の これまでと思ひて これまでと思ひて 平等院の庭の面 これなる芝の上に 扇をうち敷き 鎧脱ぎ捨て座を組みて 刀を抜きながら さすが名をえ得しその身とて 埋れ木の 花咲くことも無かりしに みのなる果ては あはれなりけり

 

【籠太鼓】
殺人事件の科で入籠させた関の清次が破籠、清次の主人が妻を引っ立て、行方を聞くが答えないため代りに入籠させる。そのために狂乱し夫への恋慕を詠う。主人はその姿に心を打たれ夫婦ともに助命し、夫婦は再会する。

やあいかに女 なにゆゑさやうに狂気してあるぞ なにゆゑ狂気するぞと承る 人の心の花ならば 風の狂ずるゆゑもあるべし いはんや偕老同穴と 契りし夫も行方知らで 残る身までも道狭き なほ安からぬ籠(ロオ)の内 思ひの闇のせんかたなさに 物に狂うは僻事(ヒガゴト)か

 


新潮日本古典集成 謡曲集 上・中・下 通読完了。
全100曲。ほかの謡曲集も大体100曲程度収録されているが、収録曲には微妙に差異がある。たとえば、新潮社版にはわりと有名だと思われる「蝉丸」が入集していない。各社・各校注者の特徴がその辺に出てくると思うので、今後リスト化できるよう他社謡曲集も見ていくこととする。

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伊藤正義
1930 -2009

アルフレッド・ノース・ホワイトヘッド「過去の研究」(1933)

労働力商品を売る生活のなかでの自由について。

大都市ならいづこにおいても、ほとんどすべてのひとが被雇用者であり、他人によって厳密に定められた通りのやり方で、その就業時間に従っている。また、それらのひとびとの態度物腰でさえ、一定の型にはめられることがありうる。純然たる個人の自由に関する限り、チャールズ一世が国王であった一六三三年ロンドン市における方が、現在の世界のどのような産業都市におけるよりも、もっと多くの自由が広く存在したのである。(中略)さまざまに異なる気質を持った諸個人の多岐にわたる諸欲求は、真剣な諸活動によってそれぞれに満たされることがもはや不可能なのである。今あとに残っているものは、雇用という鉄のように固い諸制約と、余暇のためのとるに足りない娯楽だけである。(『象徴作用』所収「過去の研究」p142-143)

 一六三三年ロンドン市。二大革命を準備している時代の雰囲気。文学の世界だとシェークスピア(1564-1616)、ジョン・ダン(1572-1631)からジョン・ミルトン(1608-1674)などが活動していた時代の感覚。「もっと多くの自由が広く存在した」って本当なのかなという気もするが、詩の領域に限ってはそんな感じもする。日本では、私の祖先は農民であった確率が高そうなので「生かさず殺さず」のなかで生活していたのだと思う。
さて、二一世紀の日本の私。曜日の感覚に左右されて生活しているというところがすでに型にはまっているという感じが大きく、とるに足らなくないヒリヒリするような楽しみというのにも縁遠い。寝る間も惜しんでロケット飛ばすことを考えるとか、革命を考えるとかはないので、本を読んで、昼風呂に浸かって、酔っ払ってと、ちょっとした愚行権をつつましやかに行使している。

 

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ルフレッド・ノース・ホワイトヘッド
1861 - 1947
市井三郎
1922 - 1989