読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ヘイゼル・ミュアー『1分間サイエンス 手軽に学べる科学の重要テーマ200』(原書2011, SBクリエイティブSi新書 2019)

科学全般の雑学取得と保有知識のチェックに便利。図をじっと見て、想いにふけなければ1テーマを1分でチェック可能。職業柄最終章の「IT」がいちばんリアルに気になる。

遺伝的アルゴリズム
量子コンピュータ
・ホログラフィックメモリ
・分散コンピューティング


科学全般を扱っているので通読すると、いつもは気にならないことが気になってきている。

宇宙の年齢 138億年
太陽の誕生 45.7億年
地球の誕生 45.6億年
月の誕生 45.3億年
原核生物 35億年
真核生物 17億年
人類(ミトコンドリア・イブ)11万~13万年
アナログコンピュータ 2100年
集積回路 60年(1958年誕生)

なんか太陽系の誕生って早すぎやしませんかね? 宇宙に存在している元素のほとんどは水素で、それ以外の元素は恒星の核融合、鉄以降の元素は恒星が寿命を終えた後の重力崩壊でしかできないと言われていて、恒星の寿命は太陽クラスだと100億年。さっきWikiで調べたところ、星の寿命は「質量が大きいものほど短い」となっているから、重い重量の恒星が宇宙の誕生の早い段階で生き死にを繰り返せば、鉄以降の元素もよく出来よく混ざるってことで、地球の元素組成割合になるのにも十分な年月なのですかね? 138億年-45.6億年で92.4億年。今が地球45歳とすると宇宙は138歳。2020年現在を軸に考えると、地球は1975年(昭和50年)生まれ、宇宙は1882年(明治15年)生まれ。なんかバランスわるい気もするけどそんなものなのか…

余計なことをすると原核生物は1985年(昭和60年)、真核生物は2003年(平成15年)、人類は出産直後(誕生直後なのに、いろいろやらかしすぎ)。変なバランスだと思うのは変な尺度で考えているからか?

 

 

www.sbcr.jp

福岡伸一『フェルメール 光の王国』(木楽舎 2011)

1632年、オランダ。フェルメールスピノザが生まれたオランダ、デルフトでもうひとり、光とレンズの世界に没入する人物がいた。アントニ・ファン・レーウェンフック。顕微鏡の父、微生物の発見者。福岡伸一フェルメールの『地理学者』『天文学者』のモデルがレーウェンフックであるとの説を取り、世界に散らばるフェルメールの絵画全37作品のうち、閲覧可能な34作品を巡礼する旅をつつけながら、作品収録美術館が立地する土地にゆかりの科学者、数学者、画家に想いを馳せる。

レーウェンフック、エッシャー野口英世ガロア、ジェームズ・ワトソン、フランシス・クリック、トマス・ヤング、ルドルフ・シェーンハイマー、ガリレオ・ガリレイ、ジョバンニ・カッシーニライプニッツニュートン

ジャン=クレ・マルタンは『フェルメールスピノザ <永遠>の公式』で『天文学者』のモデルがスピノザである説を説き、哲学的な美しい絵画論を書いた。残された資料とフェルメールの絵に残された人物の特徴から、モデルがスピノザであるということに対してそれほど違和感のない立論ではあったが、通説となっているのは福岡伸一も加担するレーウェンフックのほう。経済的な側面を考慮に入れればスピノザよりもレーウェンフックのほうが妥当だ。商人としても成功し、フェルメールの遺産管財人にもなったレーウェンフックが作品制作をフェルメールに発注したと考える方が妥当だからだ。他の肖像画に残されたレーウェンフックは『天文学者』や『地理学者』にはあまり似ていないということが言われてもいるが、加齢と肥満と人物の描かれた角度を補正すれば、同一人物・モデルであるといわれてもあまり違和感のないレベルだと思う。宗教的には破門、所属コミュニティからも追放されたスピノザの経済状態からは作品制作を依頼できるような立場にあったとは考えずらい。しかし、フェルメールスピノザとの遭遇の可能性ということについては、捨てがたい魅力がある。

旅のはじまりに、福岡伸一がかつてスピノザが住んでいたレインスブルグの家を訪れた際に取られた写真とそこにつけられたコメントには、人を留まらせる聖性を帯びた力があるように感じた。「スピノザの家を訪れたアルバート・アインシュタインの署名」の写真と並んで「スピノザの勉強部屋の本棚にある蔵書」の写真が掲げられ、その下に

19世紀になってスピノザの財産目録に基づき再蒐集されたもの。
スピノザは生活を切り詰めて、収入のほとんどを本の購入に充てたとされている。
(第一章 オランダの光を紡ぐ旅 「フェルメール、レーウェンフック、そしてスピノザ 」p12)

とのコメントが付けられている。私にとってはフェルメールの作品に匹敵する美しい作品だった。

第三章の「神々の愛でし人」では、フェルメールの「レースを編む女」に触れた後、幾何学という視点から19世紀の数学者ガロアが取りあげられている。この章のむすびの言葉は、とても印象深い。

画家も天文学者も数学者も、この世界には、眼には見えないながら、美しい構造があると信じた。そして、それは幾何学の、あるいは数学の方法によって記述可能なものだと信じた。それぞれはそれぞれのやり方で、世界が指し表す秩序の美を希求したのである。彼らの名は人々によって永遠に記憶された。
(第三章 神々の愛でし人 「幾何学の目的。そしてルイ=ル=グラン 」p103)

「画家も天文学者も数学者も」、そして哲学者もまた、思惟と表現の技術の美しさを接触可能な形で残してくれている。これに触れない手はない。

※本書はANA機内誌『翼の王国』の連載記事の書籍化。贅沢で優雅なお金の使い方をしている。


目次:

第一章 オランダの光を紡ぐ旅
フェルメール、レーウェンフック、そしてスピノザ ── フランクフルト、アムステルダム、ライデン
フェルメールラピスラズリ、そしてエッシャー ── ハーグ
フェルメールエッシャー、そしてある小路 ── デルフト

第二章 アメリカの夢
東海岸の引力 ── ワシントンD.C.
ニューヨークの振動 ── ニューヨーク
光、刹那の微分 ── ニューヨーク

第三章 神々の愛でし人
言葉のない祈り。そしてガロア ── パリ、ブール・ラ・レーヌ
幾何学の目的。そしてルイ=ル=グラン ── パリ

第四章 輝きのはじまり
フェルメール、光の萌芽 ── エディンバラ
無垢の少女 ── ロンドン
フェルメールの暗号(コード) ── ロンドン
旋回のエネルギー ── アイルランド

第五章 溶かされた界面、動き出した時間
つなげるものとしての界面 ── ドレスデン
溶かされた界面 ── ベルリン、ブラウンシュヴァイク
壁、そして絵画という鏡 ── ベルリン

第六章 旅の終焉
土星の輪を見た天文学者 ── パリ
時を抱きとめて ── ウィーン

第七章
ある仮説

あとがき

www.kirakusha.com

ヨハネス・フェルメール
1632 - 1675
アントニ・ファン・レーウェンフック
1632 - 1723
バールーフ・デ・スピノザ
1632 - 1677
福岡伸一
1959 -
小林廉宜(写真)
1963 -

 

竹内薫『「ファインマン物理学」を読む 普及版 力学と熱力学を中心として』(講談社ブルーバックス 2020)

サイエンス作家竹内薫がガイドする「ファインマン物理学」への手引き書。三分冊のうちの最終巻のようだが、「ファインマン物理学」の原書第1巻は「力学」、第2巻が「光・熱・波動」ということなので、こちらから読みはじめた。

ファインマン自身の魅力に加えて、竹内薫のかみ砕き方のうまさとちょっとしたユーモアを楽しむことができる書籍に仕上がっていると思う。ただ、1200円×3冊という設定はちょっと高級品かなという印象も受ける。一緒に書店に並んでいる大澤真幸の『社会学入門』(講談社現代新書 2020)の全640ページ、1400円と比べてしまうと、何が何でも読ませてやるという泥臭い大澤真幸とエレガントな竹内薫というたたずまいの違いを感じる。私は両方嫌いではない。

『「ファインマン物理学」を読む 力学と熱力学を中心として』、内容としては物理学の各分野についての解説ももちろん面白いが、物理学と哲学、数学との違いが語られているところなど、ファインマンの姿勢を知ることができてとても興味深い。

 

こちらは、物理学と哲学の差異が語られる部分からの引用。

物理学においては定義よりも測定方法が重要だというのである。(中略)物理学者は、時間の定義には拘泥しない。それは、もしかしたら、考える価値があるものなのかもしれない。(中略)だが、物理学では、「それは測ることができるか」ということを問題にするのである。いいかえると、原理的に測ることができないものは、物理学においては研究対象とはならないのである。
(第1章 「時間+空間+力=力学」p40-41)

 

こちらは、物理学と数学の差異が語られる部分。

ファインマン先生は、物理学の本質が「近似」にあると考えていて、それが数学との大きなちがいだという。(中略)数学は厳密であり、人間が定義してつくる世界であるのに対して、物理学は近似であり、(神様から?)与えられている世界であり、つねに実験によって理論が正しいかどうかが試される、というのである。そして、物理学は、理論が単純であればあるほど近似という性格が表面化し、理論を複雑にしてゆくにつれて近似も精確になってゆく、というのである。
(第1章 「時間+空間+力=力学」p100-101)

 

竹内薫と「ファインマン物理学」、いいカップリングだった。

そして、力学、熱力学はファインマンにとってはそれほど好きではない分野。残りの二冊、『量子力学相対性理論』『電磁気学』が結構楽しみだし、ちょっと気張って本家にも手を出してみようかという気にもなった。


目次:
第1章 時間+空間+力=力学
第2章 熱力学の存在意義
第3章 ファインマンの知恵袋――ミセレーニア

 

bookclub.kodansha.co.jp

bookclub.kodansha.co.jp

 

竹内薫
1960 -
リチャード・フィリップス・ファインマン
1918 - 1988
大澤真幸
1958 -

 

 

國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社 2019)

中沢新一斎藤環の助けを借りつつ、3.11以降の時代にハイデッガーの『放下』を読むという内容。『暇と退屈の倫理学』で示された余暇にバラを配置する手続きの前に、荒れた心も場も整えなければならないだろうという想いに駆られての論考と受け取った。

本書で何度も引用される『放下』の中で、以下がハイデッガーが「本当に不気味なこと」と呼ぶ事態が語られる部分。

本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になるということではない。それより遥かに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも用意を整えていないということであり、我々が省察し思惟しつつ、この時代において本当に台頭してきている事態と、その事態に相応しい仕方で対決するに至るということを、未だに能く為し得ていないということである。いかなる個人も、いかなる人間集団も、極めて有力な政治家たちや研究者たちや技術者たちをメンバーとするいかなる委員会も、経済界や工業界の指導的人物たちのいかなる会議も、原子力時代の歴史的信仰にブレーキをかけたり、その信仰を意のままに操ったりすることはできない。単に人間的であるに過ぎない組織は、いかなる組織でも、時代に対する支配を簒奪することはできない。(辻村公一訳『放下』、引用箇所:第三講 「『放下』を読む」p190-191)

 

國分功一郎は前半部分を複数回取り上げ、省察し思惟することの重要性を説き続けながら、自身が考える姿も見せてくれていて、たしかに不気味さに抗ういい仕事をしてくれているなという読後感をもつのではあるが、それよりも引用後半部の「単に人間的であるに過ぎない組織は、いかなる組織でも、時代に対する支配を簒奪することはできない」の部分が澱のように残る。

 

國分功一郎に比べれば私ははるか末端のスピノザ読みにすぎないが、原子力の時代という枠組み設定のなかであれば、E=mc2は、その時代の心身並行論の一表現ではないかと思っている。c(光)を媒介にしたm(身体・延長)とE(精神・思惟)の極微の世界での並行関係。並行関係だから右辺と左辺を結びつけるのは=(等号)ではない新しい記号が必要な気もするが、そうであればどこかの専門家にあたらしい論を作ってぜひお聴かせいただきたい。しがない賃金労働者なので、パトロンにはなれませんが、応援はさせていただきます。=(等号)で押し通す場合の案としては、社会的活動のなかで生ずるm(質量を持つ物質としての身体)の極小の質量変換の総体が生命の重みという主張で、個人的には物理学の世界とも神秘性なしに手を打てるはずと思っているが、いかがなものか? 光速に近い運動をしているほど質量は重くなるとアインシュタインは言っているし、身体はどの極小部位であっても静止していることはないので、完全な静止質量と生命活動を行っているときの質量の差が、生命や精神の重さ・質量であるといっても、物理学的な近似の世界解釈からは激しく逸脱はしないだろうと思ってはいるのだが……  これは、あくまで個人的な思い付きであり、人に無理に同意を求めたりはしない、たんに言ってみたかっただけのパラグラフ。

※断り書きするまでもなく、全篇言いたいこと垂れ流してるだけでした。すみません<(_ _)>

※この際、ついでにごく個人的な國分功一郎氏に対する要望。ハイデッガーよりもスピノザをベースにした議論を希望します。言語論はギリシャ語なんかでなく日本語でやって頂くとより萌えます。紀貫之菅原道真が個人的にはツボ。世阿弥も高まる。時代はくだるけれども芭蕉でももちろん可。二十一世紀・令和の世界で安井浩司を哲学者が語ってくれたら、泣いてしまうかもしれない。千葉雅也氏のほうにより可能性を感じるところではありますが、現代の九鬼周造といったところになっていただきたい。

 

一般的に原子力の問題は、E=mc2のE(エネルギー)の部分にm(質量)の特殊形態である生命にとって有害あるいは過剰な形態のものが含まれ、それを制御するには技術的にもコスト的にも有効な策がないということで、状況としては原発事故が起こるまでは一種の先送りで問題を封じていたというところになるだろう。また、事故後の運転再開については電気の安定供給と資源の調達経路のバランス、原子力経済の慣性の圧、また政治的な各種潜在的カードの維持などによるだろう。思惟することは決定的に重要であるということに理解はあるつもりだが、思惟だけでは止まらない現実の運動の力にはやはり流される。流された状態で、思いもかけない外部から、また別の災害や現下のパンデミックのような形で、突然ブレーキがかけられたりすると、各種慣性の力があったことをあらためて感じ、普段以上の重力を感じながら、減速のなか放心したりする。目の前の最悪の状態をやり過ごせば、再加速するのは必然でもあるが、まだ放心の感覚が残り、低速の状態が続いている中で、いつもより変化に開かれている状態をすこし維持しておいたほうが二次災害、二次被害は少なくなるような気がしている。澱のなかで息をひそめているというのは、ある種屈辱的な状態なのかもしれないが、意志による事態克服の活動とは異なる生活態度の再考を伴う個々人の日々の対処の仕方は、ハイデッガーのいう「開かれ」や「放下」により近い状態にあるのかもしれないと考えたりもする。

 

目次:

第一講 一九五〇年代の思想
1 原子力を考察した二人の思想家
2 核技術を巡る一九五〇年代の日本と世界の動き
3 ハイデッガーと一九五〇年代の思想

第二講 ハイデッガーの技術論
1 技術と自然
2 フュシスと哲学

第三講 『放下』を読む
1 「放下」
2 「放下の所在究明に向かって」

第四講 原子力信仰とナルシシズム
1 復習――ハイデッガー『放下』
2 贈与、外部、媒介
3 贈与を受けない生
4 結論に代えて

付録 ハイデッガーのいくつかの対話篇について──意志、放下、中動態

國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社 2019)
https://www.shobunsha.co.jp/?p=5494

國分功一郎
1974 -
マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976

 

野口米次郎「沈黙の血汐序詩」(『沈黙の血汐』 1922 より )

沈黙の血汐序詩


右には広々した灰色の沙漠、
左には錐のやうに尖つた雪の峰、
風はその間を無遠慮に吹きすさんで、
木の葉を落とした樹木の指先から沈黙の赤い血が滴る……
君はかういふ場所を想像したことがありますか。
私は今この沙漠と雪の山との中間に居ります。
ここは世界を失つた人間が追放される所かも知れません。
私は全身の呼吸を凝らして、
ぢつと蹲(しやが)み、
沈黙の血汐がぽたりぽたりと樹木から落ちて
詩の宝玉と変じ、
夕日をうけて燦爛と輝くのを見詰めてゐます。

(『沈黙の血汐』 1922 より )

 

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.040

 

山田克哉『 E=mc2のからくり エネルギーと質量はなぜ「等しい」のか』(講談社ブルーバックス 2018)

恥ずかしながら「光子はエネルギーを持っているのに質量がゼロとはどういうこと?」と理系世界では常識レベルかも知れないことをずっと疑念に思ってきたのだが、本書ではじめて腑に落ちた。「電子対創生」。いままで読んだことはあったかも知れない。でも、今回はじめて記憶に残った。アインシュタインはもちろんだけど、凄いな、ディラック陽電子反物質

電磁波は物質ではないので、質量を持っていません。一方、物質粒子である電子と陽電子は質量をもっています。したがって、対消滅は、物質が100%完全に消滅して、純粋なエネルギー(光子)に変換されることを意味しています。すなわち「物質のエネルギー化」に相当します。
(中略)
これとまったく逆の現象が、「電子対創生」です。
大きなエネルギーをもつガンマ線は電磁波(光)の一種なので、粒子(光子)としてもふるまえます。その際、大きなエネルギーを持つ光子が100%完全に消滅して、その消滅点に「電子―陽電子の対(ペア)」が現れる現象が起こることがあるのです。光子1個が消滅して、物質が現れる「エネルギーの物質化」です。
質量ゼロの光子が質量をもつ物質粒子に変わるこの現象が起こるためには、光子は少なくとも、誕生する二つの電子(電子―陽電子の対)の静止エネルギー(2×mc2)よりも大きいエネルギーをもっている必要があります。
(第5章「E=mc2のからくり」p201-203)

情報が知識になるためには必要最低限の組み合わせを塊として用意していただく必要がある。著者の山田克哉氏は「読者に必ず理解してもらう」ことを信念として執筆にのぞむ科学者のようで、きっちりと不足なしに情報一式をいっぺんに提供してくれている。E=mc2の右辺から左辺へ向かう現象と、左辺から右辺へ向かう現象を、これほど明瞭簡潔にまとめ教えてくれた人はいなかった。消化酵素なしの過剰摂取をした場合のような、消化不良の時におこる読後の変なモヤモヤ感は今回まったく感じない。また、現在解決していない問題(電子や陽子がスピンしている理由、ダークマターダークエネルギーなどなど)についてはそれを明示してくれているのも、余計な疑念を持たずに済み大変ありがたい。いい作者に出会ったときの高揚感を、いま感じている。

 

目次:

第1章 物理学のからくり――「自然現象を司る法則」の発見
第2章 エネルギーのからくり――物体に「変化」を生み出す源
第3章 力と場のからくり――真空を伝わる電磁力と重力のふしぎ
第4章 「人間が感知できない世界」のからくり――“秘められた物理法則”と光子のふしぎ
第5章 E=mc2のからくり――エネルギーと質量はなぜ「等しい」のか
第6章 「真空のエネルギー」のからくり――E=mc2と「場のゆらぎ」のふしぎな関係

bookclub.kodansha.co.jp

 

山田克哉
1940 -

 

イリヤ・プリゴジン + イザベル・スタンジェール『混沌からの秩序』(原書 1984, みすず書房 1987)

世界の再魔術化、魅惑の世界の再来ということに関してモリス・バーマンは「デカルトからベイトソンへ」という線を引いた。イリヤ・プリゴジンはバーマンとはまた別の視点から複数の魅力的な線を引いている。


 ディドロ、カントからホワイトヘッド
 独立体からコミュニケーションへ

 哲学と数学の蓄積のなかからノーバート・ウィーナーへ

 ニュートンからボルツマンを経てハイゼンベルク


熱力学の第二法則から量子力学に視点を移しながら、時間の不可逆性という魅惑をプリゴジンは説く。アインシュタインが物理学に不可逆性を導入することに抵抗した姿を残念に思いながら彼の業績をたたえている文章のなかに、その魅惑の世界の姿が端的に表わされていると私は思った。

彼(引用者注:アインシュタイン)の世界は観察者や、相互に動いている種々の座標系にいる科学者や、重力場のいろいろな星にいる科学者で満ちている。これら観測者はすべて、宇宙のいたるところで信号を送って情報を交換している。アインシュタインが何よりも大事にしたかったのは、このコミュニケーションの客観的な意味である。しかし、アインシュタインはコミュニケーションと不可逆性とが密接に関係していることを受け容れるまでには至らなかったと言えよう。人間の精神が理解することのできる最も不可逆な過程、すなわち知識が次第に増加してゆくことの基礎にコミュニケーションがある。
(結論「地上から天上へ――自然の魅力の再来」p380)

ニュートンからボルツマンを経てハイゼンベルクを通過した古典物理学から量子論の世界の線上にはアインシュタインも間違いなくいる。この魅力的な線をたどるなかで、コミュニケーションと時間の不可逆性について思いを巡らせるのは、現代の時間の過ごし方としては贅沢なほうであろう。量子論は馴染んでくるとだんだん面白くなってくる。

 

※共著者のイザベル・スタンジェールは化学と哲学の学位を持つパリ在住の科学史家。ネット上に残っているインターコミュニケーション誌上での浅田彰プリゴジンへのインタビューによれば、ドゥルーズに近い立場の人だという。『混沌からの秩序』の魅力的な文章や構成には、彼女の力も大きく影響しているに違いない。

 

目次:

序論 科学への挑戦

第 I 部 普遍性の妄想
第一章 理性の勝利
1 新しいモーゼ
2 人間性を喪失した世界
3 ニュートンの総合
4 実験による対話
5 科学の根源にある神話
6 古典科学の限界
第二章 現実の確認
1 ニュートンの法則
2 運動と変化
3 力学の言葉
4 ラプラスの魔
第三章 二つの文化
1 ディドロと生命論
2 カントの批判的承認
3 自然の哲学?――ヘーゲルベルグソン
4 過程と実在――ホワイトヘッド
5 「イグノラムス、イグノラビムス」――実証主義者の一派
6 新しい世界

第 II 部 複雑性の科学
第四章 エネルギーと工業時代
1 熱――万有引力の対抗馬
2 エネルギー保存則
3 熱機関と時の矢
4 工学から宇宙論
5 エントロピーの誕生
6 ボルツマンの秩序原理
7 カルノーダーウィン
第五章 熱力学の三段階
1 流束と力
2 線形熱力学
3 平衡から遠く離れて
4 化学的不安定性の閾値を越えて
5 分子生物学との遭遇
6 分岐と対称性の破れ
7 分岐のカスケードとカオスへの転移
8 ユークリッドからアリストテレス
第六章 ゆらぎを通しての秩序
1 ゆらぎと化学
2 ゆらぎと相関
3 ゆらぎの増幅
4 構造安定性
5 ロジスチック進化
6 進化的フィードバック
7 複雑性のモデル化
8 開かれた世界

第 III 部 存在から生成へ
第七章 時間の再発見
1 強調点の変化
2 普遍性の終焉
3 量子力学の興隆
4 ハイゼンベルクの不確定性関係
5 量子系の時間発展
6 非平衡宇宙
第八章 学説の衝突
1 確率と不可逆性
2 ボルツマンの突破口
3 ボルツマンの解釈を問う
4 力学と熱力学――二つの別の世界
5 ボルツマンと時の矢
第九章 不可逆性――エントロピー障壁
1 エントロピーと時の矢
2 対称性を破る過程としての不可逆性
3 古典的概念の限界
4 力学の刷新
5 乱雑性から不可逆性へ
6 エントロピー障壁
7 相関の力学
8 選択原理としてのエントロピー
9 活性ある物質

結論 地上から天上へ――自然の魅力の再来
1 開かれた科学
2 時間と時間たち
3 エントロピー障壁
4 進化のパラダイム
5 役者と見物人
6 荒れ狂う自然の中のつむじ風
7 トートロジーを越えて
8 時間の創造の道
9 人間の条件
10 自然の復権

www.msz.co.jp

イリヤ・プリゴジン
1917 - 2003
イザベル・スタンジェール
1949 -
伏見康治
1909 - 2008
伏見譲
1943 -
松枝秀明
1945 -