読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】07 解放: 神智学に傾倒したカンディンスキー、内的必然性の解放に踏み出す

ワシリー・カンディンスキー(1866 - 1944)はバウハウスでも教官をつとめた理論派の抽象画家。著作『点と線から面へ』は読んだこともあるが(メモ程度の感想ですがこちらです

uho360.hatenablog.com

)、

シュタイナーもいた神智学協会会員であったとは気がつかなかった。ピエト・モンドリアンも同じく神智学信奉者ということで、視覚芸術系には大変いい影響を与えていたという歴史的事実にすこし驚いた。シュタイナー自身の著作については自然科学系の学問すべてを書き換えようという意志を感ずることはできるが、はっきり言って失敗していると思ったのだが、それが視覚芸術の守備領域に限定して展開されると、こうも鮮やかな業績が生まれるのかと、眼を洗われる思いがした。精神の状態と色彩および形象との結びつきに特化した場合、神智学の提示する体系知は、未踏の領域に切り込んでいく刃のするどさが研ぎ澄まされていく。

 

カンディンスキーの性向】
カンディンスキーにとって、〔抽象への〕決定的な一歩は「理性的」な芸術の拒絶をも意味するものだったからであり、アイヒナーにいわせれば、そのためには「莫大な内面の推進力とあたうかぎり強力な自己意識」が必要なのであった。(「序章」p17)

 

【神智学の方向性についてのリングボムの解釈の一つ】
彼ら(引用者注:神智論者たち)は、こと超自然的問題に関するかぎりもはや唯物論的科学の方法も信じず、それに代わって「未開人たち」のなかば忘れ去られた方法へと方向を転じている。(第一章「物質の消滅と科学の瓦解」p56)

 

【内的必然性】
内定必然性は次のような三つの神秘的必然性から成る。
(一)芸術家による彼の個人的特性の表現に由来する個性の要素
(二)芸術家による時代や民族の特性の表現に由来する様式の要素
(三)すべての芸術の共通分母たる純粋に永遠に芸術的なるものである
第三の要素は、時間や場所から独立したもっとも重要な要素であり、芸術家の偉大さの尺度となるものである(第三章「芸術作品と芸術家」p141)

 

【シュタイナーの神智学とカンディンスキー抽象絵画の関係】
さまざまな対象は内的知覚に向かって「みずからの内的本質を語り」始め、そのとき、事物の内部で働くさまざまな力が「霊的な線や形象として」発現すると、シュタイナーは主張していた。こうした観念に励まされて、カンディンスキーは純粋な線と色彩についてのみずからの信念を、可視的な外観の背後にある内的核心の表現として造形化した。(第六章「余波」p252)

 

 

カンディンスキーの画業は具象画からはじまり、ロシア的形象の印象の濃い幻想的絵画を経て、純粋抽象画に向かうという、道を辿って行く。鑑賞者としては、それぞれの時期の好き嫌いはあるにせよ、それぞれの時期のカンディンスキーの全力を感じることができて、向き合えることの貴重さを感じることができるのだが、カンディンスキー自身の人生についての記述を見ると、あまり幸せそうな人生には思えない。いつも不満を感じている人生。ただそれは、自分の漠とした理想に明瞭な形態を与える技術と発想に廻りあえていないもどかしさが現れてしまっただけのもので、けっして負け戦ではないことは確認しておかないといけない。

 

S・リングボム『カンディンスキー ―抽象絵画と神秘思想』(原書 1970, 平凡社 1995 松本透訳)

 

ワシリー・カンディンスキー
1866 - 1944
シックストン・リングボム
1935 - 1992
ピエト・モンドリアン
1872 - 1944
ルドルフ・シュタイーナー
1861 - 1925
松本透
1955 -

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】06 素材(ヒュレー): 中公『世界の名著 続2』からプロティノスのテクスト11篇 1750年前の「一なるもの」「知性界」「感性界」の記述のあわいをうろつき観照する

善なる一なるものから、いかにして悪が産出されるのか? プロティノスを読み進めていく興味の中心はその一点に尽きた。

 

プロティノス (205 - 270)  収録テキスト11篇】

田中美知太郎 訳
 善なるもの一なるもの
 三つの原理的なものについて
田之頭安彦 訳
 幸福について
 悪とは何か、そしてどこから生ずるのか
 徳について
 美について
 エロスについて
 自然、観照、一者について
水地宗明 訳
 英知的な美について
 グノーシス派に対して
 一なる者の自由と意志について

 

一なるものは完全であり善であるいっぽうで、基本的に悪は不完全で不足をもったものである。以下に、悪に関係する思索部分をピックアップ。プロティノスの言葉を組み上げていくと、善を肯定するための契機として悪は必要、というなんだかいやらしい論理構成となる。必要なものであるのならそんなにさげすむこともないだろうに、と21世紀のただの本好きは思いながら先人の言葉に学ぶ。

 

【善なるもの一なるもの】
物体は物体によって妨げられて、相互に共同することができなくなるけれども、物体でないものは、物体によって分けへだてられるということはないのである。(8節 p139)

 

【三つの原理的なものについて】
余計な付加物を取り除いて、完全に純粋なそれを捉えて、よく見るならば、君はそこに同じ尊いものを見つけるであろう。それが本来のたましいなのであって、およそ肉体的、物体的なもののすべてにまさる価値をもつものなのである。(2節 p152)

一なるものは、万物を生むことの可能な力として存するのである。(7節 p160)

 

【幸福について】
魂と肉体に共通している生の中には、幸福はない。プラトンも、「知恵のある幸福な人になろうとする者は、あの上の世界(知性界)から<善きもの>を取り、これを眺め、これと同じになり、これにしたがって生きなければならない」と考えているが、この考えは正しいのである。(16節 p194)

 

【悪とは何か、そしてどこから生ずるのか】
物体の種族は、素材に関与するものであるから、その点からみると第一義的な悪ではないけれども、とにかく悪といえるだろう。それというのも、肉体のもっている形相(エイドス)は真実のものではなくて、形相の*ようなもの*にすぎないのであるし、また、物体は生命を欠き、自分たちの不規則な動きによってたがいに滅ぼしあい、魂に固有な活動を妨げ、たえず流動することによって真実性(ウシア)から遠くへ逃げ去っているからである。(4節 p201)

素材の本性は<貧しさ>につきているので、その素材が原因となって或るもの(諸善)を必要とするようになるが、貧しさとは、それを必要としたり欠いていたりすることである。(5節 p204)

しかし、どうして、善があれば、悪もなければならないのだろうか。はたして、この宇宙万物の中には素材がなければならないから、悪もあるのが必然なのだろうか。
そうなのだ。つまり、この宇宙万物は、相反するものから作られているのが、何といっても必然なのであって、もし素材がなければ、この宇宙万物もありえないことになるのである。
(7節 p207)

もし人が、「諸存在の中には、要するに、悪いものなんかないのだ」と言うなら、彼の立場としては、善いものの存在をも否定することになるのが必然であって、(その結果)また望ましいものは何もないということにもなるだろう。だから、求めることも避けることも、また知性を働かせることもしないようになってしまうだろう。それというのも、人は善を求め悪を避け、善と悪にたいして知性や叡智を働かせるのであって、その知性の働き自体が、或るひとつの善きものだからである。(15節 p218)

 

【徳について】
適度さをまったくもっていないものは<素材>だから、神に似ているところはまったくないが、形(エイドス)にあずかるものは、そのあずかる程度に応じて、あの世界の神に――それは形をもたないものであるが――似てくるのである。(2節 p226)

 

【美について】
魂が醜いのは、異質のものと混合し結合して、肉体や素材の方にひかれるからだと言えば、正しいだろう。(5節 p246)

 

【エロスについて】
<思慕>はつねに<欠如の状態にあるもの>がこれをもつのであるから、エロスの母は<べニア>ということになる。ところが、<べニア>とは素材のことである。なぜなら、素材もすべてを欠いているものであるし、善にたいする欲望の基(もと)にあるのは<無規定なるもの>であって――というのも、善を思慕するものの中には、いかなる形(モルベ)もロゴスもないからであるが――これが、思慕するものを、その思慕の程度に応じて素材的なものとするからである。(9節 p273)

 

【自然、観照、一者について】
知性には、素材と――ただし、これは知性界の素材のことであるが――形相の二つの面があることになるだろう。というのも、現に活動している視覚にも、二重性があるからである。つまり、知性は見る前は一つだったのである。だから、一つが二つになり、その二つが一つになったのである。そして、われわれの視覚のばあいには、感覚対象によって充足され一種の完成状態に達するのに対して、知性の視覚のばあいにはこれを充足させるものは<善>なのである。というのも、もし知性自体が<善>だったら、見たり、あるいは要するに、活動したりする必要はなかったはずだからである。(11節 296)

 

【英知的な美について】
かの世界(引用者注:英知的=知性的世界)における観照には、労苦も伴わないし、観照者が満ち足りて止めてしまうということもない。なぜなら、満たされた結末に到達して満足する条件としての、(事前の)空虚(むなしさ)というものもないのだし、またかの世界の一員の諸状態が他の一員の気に入らぬということが生じる条件であるところの、各成員の相異ということもないからである。それにまた、かしこのものは消耗することもないのである。(4節 p307)

 

グノーシス派に対して】
すべてのもののうちで最も無力なもの(すなわち素材)のみが、もはや自己の下方に何も有しないのである。他方かの世界には驚嘆すべき力が走行しており、その結果(この世界を)産出しもしたのである。
ところで、もしこの世界よりももっと良い(模像的)世界が他にあると言うのならば、それはどんな世界なのだ。他方、もし何らかの(模像的)世界が存在することが必然的であって、しかも他にはないとするならば、この世界こそかの世界の模像(おもかげ)を保存するものである。(8節 p339-340)

 

【一なる者の自由と意志について】
われわれは、本来の意味で想念(パンタシア)と呼ばれるべきであろうような想念、すなわち肉体の諸情態によって呼び起こされる想念を――例えば食べものと飲みものがからっぽになっている情態がある種の想念をいわば形成するのだし、逆にまたいっぱいに満ちた情態もそうである。また精液の充満した人は(そうでないときとは)違った想念をもつし、その他体内のもろもろの液汁の各性質に応じて、いろいろな想念をもつわけではあるが――この種の想念に基づいて活動する人々を、自主的な始元(行動主体)のうちに、われわれは数えはしないであろう。だからこそまたわれわれは、通常この種の想念にしたがって行為する劣等な人間には、彼ら次第のことをも自発性をも認めないのであり、他方英知の活動に従って行為し、肉体の状態からは自由である人にこそ、自主性があることを承認するであろう。(3節 p369)

 


感性界に万物は創造され、そこには時間と空間がある。それに対して一なるもの、知性界(叡智界)に被造物はなく、無時間、無空間で不動の善なる働きがある。われわれ人間は基本的に感性界下の創造物、合成物であり、知性の働きを分有されていることで、一なるもの、知性界に繋がる可能性を秘めていると言われており、肉体あるいは身体を滅して知性界に参入することが良きふるまいと説かれている。しかしながら、肉体を離れるというのは、仮にあったとしても、特権的な人間のみに可能なことで、21世紀の一般市民は身体をベースに働き、自分を養い、生きているのが普通だ。自主性や自発性よりも強制や制約や単なる習慣のほうに影響されて行為していることが多いかもしれないが、それでも各自の行動やふるまいに自主性や自発性があると仮定することで、妥当な抑止が働いて社会生活が成り立っている。善きものに関する考察には礼を執りながら、完全には与することなく、ままならない身体への配慮をつづけながら、知性的な活動を心がけるくらいがちょうどいいのではないかと思う。「完全には与しない」というのが私にとっての自主性であり、行動や思考の指針となってくれることと思う。

諸悪の根源ともいいうる「素材(ヒュレー)」の存在は必然的だということだったが、一なるものから感性界に創造されるメカニズムを詳細に知りたい気持ちはモヤモヤと残っている。また人間の身体について、生まれ、育ち、老い、死すという経路の必然性のようなものが語られていないのは残念。また身体については性差についても知りたかったし、知性に性差のようなものが有るかどうかも聴いてみたかった。知性については性差なしという男性性一元論のような印象をほのかに感じもしているが、本当かねと思っている。あるいは知性に性差があれば誰かに体系立てて教えて欲しいものだとほんのり思っている。

 

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】05 存在: 平凡社『中世思想原典集成16 ドイツ神秘思想』からマイスター・エックハルトのテクスト8編 神と存在について。ハイデッガー読解に役に立つかも

多くは形式に則った公文書。『神の慰めの書』にくらべればより学問的な内容となっている。『パリ討論集』を頂点に神と存在についての説教・講解を多く集めている。

【収録テキスト】
・主の祈り講解
・命題集解題講義
・一二九四年の復活祭にパリで行われた説教
・聖アウグスティヌスの祝日にパリで行われた説教
・パリ討論集
・集会の書(シラ書)二四章二三—三一節についての説教と講解
・三部作への序文
・高貴なる人間について

『パリ討論集』のなかでは「神は、存在者もしくは存在ではない」(p225)といわれ、それ以外の教説では「神自身が存在だ」(『三部作への序文』「三部作への全体的序文」p335)あるいは「存在は神である」(『三部作への序文』「註解集への序文」p349)といわれ、どちらが本当かと推量するに、よりラディカルな表現である『パリ討論集』の「神は、存在者もしくは存在ではない」のほうを、エックハルトの思索の核として私は取りたい。

存在は第一に、被造物の本質規定を有しているのであり、したがって或る人々は次のように言っている。すなわち、被造物においては存在のみが作用因の観点の下で神を受け取るのであるが、本質は神を範型因の観点の下で受け取るのである。しかし知恵は知性に関係しているのであり、被造物の本質規定を有していない。そしてもじ「集会の書〔シラ書〕」二四章〔九節〕において「私は初めから、世の前から造られていた」と言われているから、けっしてそんなことはないと言われれるならば、この場合の「造られていた」とは「生まれていた」であると説明されうるであろう。しかし私はこのことを次のように違った仕方で述べる。すなわち、「初めから、造られた世の前に」、「私はある」。したがって創造者であり、被造物でない神は、知性であり、知性認識であって、存在者もしくは存在ではない。(『パリ討論集』「1.神において存在と知性認識とは同一であるか」(1302/03年)p225)

 

「知恵は知性に関係しているのであり、被造物の本質規定を有していない」というのもすごいが(要するに被造物は知性の面では基本的にからっぽである)、神の側の知性について、原因も目的ももっていないとあらためて明示的に解かれるのも、また衝撃的だ。

 

すべての事物は、それ自身の活動のために存在している。したがって、もし知性認識が神の存在とは異なるものであるならば、神自身とは、そしてまた神がそれであるところのものとは異なる目的を神自身に与えることがありうることになるであろう。これは不可能である。なぜならば、目的は原因であるが、第一のものに原因を与えることはありえないからである。さらにまた、第一のものは無限なるものであり、無限なるものには目的は属さないからである。
(『パリ討論集』「1.神において存在と知性認識とは同一であるか」(1302/03年)p223)

 

無限が出てくると人間の思考は途端に危ういものになる。一、有、存在、無、無限、みな考え出すと道に迷うものばかり。基礎づけに戸惑う概念ばかり。だから、ずっとそのことを思考の対象としてきた西洋の哲学と神学の歴史に触れると、その厚みにびっくりすることになる。知の歴史に出会うのが遅すぎたという面は、私の個人史のなかでは否定できないものになってしまったが、とりあえず出会いびっくりすることができている点には感謝したい。

いまわりとたくさん読んでいるハイデッガーの「存在」についても、この知の歴史、エックハルトの語った「存在」と併せて読むことで、新たな理解が生まれてくるかもしれない。ハイデッガーの言説に神が直接出てくることはないが、神をベースに教え説くエックハルトの言説、ハイデッガー自身も傾倒したエックハルトの言説を重ねてみることで、もどかしさを感じていたハイデッガーの読解に何かしら別の光が当たるかも知れない。

www.heibonsha.co.jp


山善樹(訳)
1950 -

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】04 離在: 自称唯物論者、『神の慰めの書』でマイスター・エックハルトの教説に酔う

今後の人生のよりどころになり得る一冊。エックハルトの神への愛に発する言葉に触れて、信仰のない私のこころも大きく動いた。はじめて聴くような言葉の数々に、世界に接する態度の別の可能性といったものを教えてもらったような気がしている。


エックハルトは権威権力側の教会から異端宣告を受け、抹殺対象となり、審問にかけられる前に死去したため処刑されることはなかったものの、著作は焚書にされ、葬り去られている。神との合一を説くエックハルトの思想は、神と信仰者の直接関係が主となり、教会の存続を危うくする思想でもあるため、教会側として許容できる思想でないことは容易に想像できる。教会の官僚機構のなかに身を深く沈めているものであれば、エックハルトを危険視するのは当然だ。だからこそ、既成の思想を危うくするまでの堅固さにまで達したエックハルトの思想は本物なのだと思う。より根底的、ラディカルな思索の数々は、神として名指されているもののすがたも、一般的な創造主・審判者のイメージから、どこか変えてしまっているような印象も受ける。

 

人間が神にもっとも近く結ばれんがためには、そしてまた彼が、己が神の内にあったときのすがた、すなわち神が今だ万物を創造し給わざりし以前、彼と神との間に何の差別もなかったときのすがたにもっとも相似的にあらんがためにはいかにすればよいのか、どうするのが最善最高の徳なのかを、全心を傾倒して真剣に探索したのである。かくのごとにくして私は、私の理性が証し認識しうるかぎり一切の書を究尽して来ているが、すべての被造物を捨離する純粋なる離在(abegescheidenheit)よりほかに見出さなかったのである。(「離在について」p186)

 

すべてを捨て、無に到ることを究極とする無の思想。「神の無能」こそ「最大の能力」と説く教説。一点の曇りもなく無を肯定的に説くエックハルトの思想は、私にとってかなり衝撃的であった。キリスト教神学の歴史のなかではエックハルトのほかに同じような思想を説くものもいるのかもしれないが、私ははじめて接した考え方だと思った。仏教の無とも異なる全能なる無。思考の極限の形態を見せてもらったような気がしている。


【 マイスター・エックハルト (1260 - 1328) 】

『神の慰めの書』(講談社学術文庫 相原信作訳)
第1部 論述
 1 教導説話
 2 神の慰めの書
 3 高貴なる人間について
 4 離在について
 5 魂の高貴性について
第2部 説教
 1 マタイ伝第21章第12節についての説教
 2 マタイ伝第25章第23節についての説教
 3 ルカ伝第7章第14節についての説教
 4 ルカ伝第10章第38節についての説教
 5 同上
 6 ルカ伝第21章第31節についての説教
 7 ヨハネ第1書第4章第9節についての説教
 8 イザヤ書第49章第13節およびヨハネ伝第8章第12節についての説教
第3部 伝説
 マイスター・エックハルトの饗宴
 マイスター・エックハルトの娘
 マイスター・エックハルトの時代と生涯

 

bookclub.kodansha.co.jp


※読んでいる途中に紛失してしまったが、すぐに再購入して正解。

 

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】03: 霊学 『神秘学概論』(原書 1909 ちくま芸文庫 1998 高橋巌訳)を書いたルドルフ・シュタイナーの内的必然性は理解する

霊界の話。

ひとくちに神秘思想といってもいろいろだ。

プロティノスの哲学、エックハルトの宗教、そしてシュタイナーの神秘学。

一般的に用いられる時の語のニュアンスとはすこし異なるが、シュタイナーが自身の霊学という神秘学の説明をする時にオカルトという語を使用しているのは、彼の独自性のあらわれと感じた。

霊聴の世界の観察は、読むことに似ている。この世界の中の存在たちは、考察者に対して、文字のように現れる。考察者は、超感覚的な書物を読むために、その相互関係をしらなければならない。それゆえ霊学は、霊聴による認識を、「オカルト文書の読解」と呼ぶ。(p366)

霊聴は旧約時代の預言者も聴いた一種幻聴のようなものと思う。ただ聴きとりの先にいるのは神ではなく高級霊。聴きとるものは民族の運命ではなく世界の有りよう。こう書くと、霊学の霊聴のほうが奥深そうに思えるかもしれないが、私の感覚では霊学の内容のほうが空疎。肌理の粗い世界提示だ。


人間の世界と人間自身とが、土星紀、太陽紀、月紀、地球紀、木星紀、金星紀、ヴルカン星紀の諸段階を通っていく、(中略)さて、霊学の意味で現在の土星を考察すると、それは古い土星の再生した姿である。それは、太陽と地球との分離以前に、特定の本性たちが存在していたゆえに、生じた。(p448-449)

いくら天文物理学的にナンセンスであろうと、シュタイナーにとってはこれは揺るぎない真実だ。著作も人をだまそうとしているたぐいのものではない。無論、私は与しない。生物学的にもおかしなことが書かれているし、選別思想が顔をのぞかせていることも気になる。ただシュタイナーが本気だということは理解した。ただそれなりの数になる同調者がどういったスタンスで霊学に与しているかは、本書には書かれていないので、想像もつかず、すこし怖さも感じている。同調者みながみなシュタイナーと同等の霊視霊聴を体験しているわけではないだろうのに、どういったつもりだろう。何がしたいのかというよりも、何がしたくないのか、何を避けたいのかという点は知りたいかもしれない。


※現在ふたたび移動中。スマホでの入力は、ちとつらい。

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】02: 紛失 移動中にエックハルトの『神の慰めの書』を無くす

130ページまで読んだところで『神の慰めの書』を落として無くしてしまった。

高橋和夫の『スウェーデンボルグの思想 科学から神秘世界へ』も無くしているし、、、😢

自業自得。自分の本だったのがまだ救いだ。

まだどこかで売っているだろうか。

いいところだったので、すごく残念。

立ち止まっても仕方ないので、次の本に向かう。

【4連休なので神秘思想への沈潜を試みる】01 始動:プロティノスから読みはじめたが、連休の読書ゲームの相手としては格がでかすぎたかもと思いはじめる

プロティノス (205 - 270) 】

『世界の名著 続2 プロティノスポルピュリオス・プロクロス』(中央公論社)からプロティノスの作品

 善なるもの一なるもの
 三つの原理的なものについて
 幸福について

まで読みすすめる。

 

「善なるもの一なるもの」で提示された世界観に、のっけから躓く。

 

プロティノスによる「一なるもの」の像
・形容なしであって、知性によって直知されるような形容さえも有しない
・場所のうちになく、時間のうちにないもの
・認識は困難であって、むしろそれから生み出されたものとしての有(存在)によって徐々に認識されることになる
・単一で、多や分割を免れている
・自分だけであるものであって、何ものもこれに外からくわえられることのないもの
・何ものをも欲しない
・物量ではない
・全きままに止まって、同じ状態をつづけている

 

スピノザの「神即自然」、老子の「タオ」を重ね合わせながら読んでみたものの、二番目の「場所のうちになく、時間のうちにないもの」という明示的な表現が、読み手に厳しい判断を迫ってきている。さて、どうしたものか。

「場所のうちになく、時間のうちにないもの」ということは時空の認識の枠組みを超えているということである。時空の認識の枠組みを超えた「一なるもの」から認識するものとしての人間と、認識されるさまざまな「有(存在)」が「流れ出る」。流出する。

これを二一世紀に生きるものがどう解釈すべきか。現在の物理学では真空という場は静止しているものではなく、物質の生成と消滅を繰り返しているということが言われている。それは、真空という場、どこにでもある場の事象であり、多くの科学者が認める観測結果として提示されているのであるから、べつに驚くにはあたらない。そういうものだと飲みこむことは可能だ。現在観測されていない暗黒物質や暗黒エネルギーも観測されないながら観測対象として想定されているところで、べつに問題はない。すべてはこの世界のなかでの物理的な事象であるのだろう。ビッグバンモデルの宇宙像では、この宇宙の地平内のことは、大体人間の観測対象として知的に取り込める。ただ、「場所のうちになく、時間のうちにないもの」はビッグバン以前の何ものか、「認識は困難」というか観測対象外のものであるはずで、何と名付けてもとらえようのないものであるだろう。天才物理学者ファインマン先生であれば、物理学の対象外と明確に答えてくれる何ものかだ。観測や判断の対象外物のについては意図的に、判断停止を宣言すればそれはそれで済むと私は思う。プロティノスの言説も、物理学的に解釈すればそこでおさまりがつくのだが、「一なるもの」は「場所のうちになく、時間のうちにないもの」であるが「善なるもの」であると価値判断の根拠に持って来られると、一気に戸惑う。スピノザも神の無限の属性のうち人間の精神が捉えることができるものは思惟と延長といっていて、延長は時空の別の言い換えであるから問題なくても、思惟のほうはなんだか一読者としておさまりが悪い。思惟については物理法則のようなものであろうと思っているし、心身並行論も身体(延長)優位の解釈で何とか腑に落ちているところがあるので、「無限の実体」(スピノザ)や「一なるもの」(プロティノス)が価値判断のベースにされ、さらにそれをベースに論理を展開されるとついていくのに努力を要する。スピノザは「コナトゥス」によって事物の存続にかかる良い悪いの判別の提示にとどまるが、プロティノスはあからさまに善悪を持ってくるので、やはり違和感がある。この違和感がたぶん重要なのだろうと考えて読みすすめていくほかない。

本日は、午前中にのうちに外出するため、図書館から借りた古いハードカヴァー本は持ち出し読みすすめるのは困難になる。早めに区切りをつけて、手持ちの文庫本に切り替えようと思い、ここで区切りをつけた次第。