読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

希望の思想家、エルンスト・ブロッホ「希望は失望させられることがあるか」(テュービンゲン大学開講講義,1961 『異化Ⅰヤヌスの諸像』収録 原書1962, 白水社 1986)

エルンスト・ブロッホは異化の思想家であるとともに希望の思想家でもあった。それぞれの思想を語る際に共通しているのは、世界が変容する現在の現われに対して明晰な視線を投げかけているところ。

希望は、自由の王国と呼ばれる目的内容に従いつつ、投げやりな態度をとらずに自らの義務を守ることによって、規範であるのだ。たしかに奇形物が現われた場合には、まず通観のための経済的・社会的分析が早急になされねばならない。しかも正確には、<どこから>についてのこうした分析の中にも、(塩をきかせるためには)<何のために>というユートピアの総体が絶対に含まれていなければならない。そしてこのユートピアの総体は、まさに人類最古の白昼夢の中で、つまり、人間が賤しめられ、奴隷化され、見捨てられ、軽蔑された存在であるような関係すべての(ヒポクラテス風の配置替えではない)逆転、という点で、重きをなしてきた。
(『異化』Ⅰヤヌスの諸像「希望は失望させられることがあるか」p206)

大学開講講義の講義録ということもあり、『異化Ⅰヤヌスの諸像』に収録された他のエッセイとは少し趣が異なる硬めの文章ではあるのだが、「(塩をきかせるためには)<何のために>というユートピアの総体が絶対に含まれていなければならない」といった表現が出てくるのは、ブロッホ独特の魅力のためのようだ。否定検証の中から現在あるものを踏み越えるような可能的なものを生み出す根源の力となる希望。それは数々の失望によってかえって鍛え上げられる思想の形であるといわれている。また、目的は「自由の王国」と決まっているらしい。そして希望の運動は「自由の王国」の像を真正なものにするような方向性をもっている。

エルンスト・ブロッホ
1885 - 1977
船戸満之
1935 -
守山晃
1938 - 1991
藤川芳朗
1944 -
宗宮好和
1945 -

旧約聖書の世界のはじまり

ビッグバンモデルとの親和性という言説もちらほら見かけているために、創世記では「光あれ」という言葉が最初にあるというようにイメージの書き換えが私の中で起こっていたのだが、実際に読み返してみると、光の前に天も地も水もあって、他の世界創造神話とそれほど変わらないのだなという印象に落ち着いた。

はじめに神は天と地とを創造された。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の霊が水のおもてをおおっていた。

神は「光あれ」と言われた。すると光があった。

(口語訳 旧約聖書「創世記」第一章)

 新約聖書のほうは「初めに言(ことば)があった」(「ヨハネによる福音書」)というところからはじまるので、こちらは人類のシンボル化能力による世界分節がはじまりとしてあるというふうに、無信仰の立ち位置でいまのところ解釈している。


アルノルト・シェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』(1930-32)ピエール・ブーレーズの新版(1995)を聴きながら和訳台本(長木誠司訳)を読む

旧約聖書出エジプト記に取材したシェーンベルクの未完のオペラ。台本だけ完成して楽曲のほうは情勢不安のためドイツからアメリカへの亡命したのちに完成することなく終わってしまう。

 

普段オペラはほとんど聴くことはないのだが美学者の中井正一が『モーゼとアロン』に言及していたことがあったことを思い出したので図書館で借りて聴いてみた。シェーンベルクの無調の音楽は高橋悠治の『新ウィーン楽派ピアノ作品集』で触れてはいたものの、聴いていて心地よいというものではなかったので、そのシェーンベルクが作るのはどんなオペラなのだろうと、おそるおそる聴いてみたところ、不穏なドラマにふさわしい楽曲ということもあって、なんだか馴染んだ。歌唱のほうも歌うというよりも、朗読劇の訴えの声のようであって、ドイツ語を理解できない私にとっては、それも音として興味深いいい声であった。コーラスも様子を見ながらもカサカサと湧き上がる呟きや会話を表現していて効果的だと感じた。

神に選ばれ神の側に立つモーゼと、神の直接の声を与えられない存在の民衆側寄りのアロン。言語表現が得意ではない弟モーゼと、人間側の言語表現については十全な能力を駆使できる兄アロン。民衆とアロンは黄金の子牛を偶像として崇めたことによって神に背き、モーゼに非難されることになるが、シェーンベルクの台本を読んでみると、アロンにシンパシーを感じ同情したくなった。モーゼの民衆に背かれての孤独と、アロンの民衆の側に立ちながらも神の後ろ盾はなく自分で考え一人いる孤独。アロンの不安や悩みの方が入りこみやすいし、シェーンベルクの台本も聖書の記載よりアロンの重要度が増して描かれている。

これこそ黄金なる材料、
それをあなたたちは捧げたのだ。
私がこの材料に与えた形態は、
他のすべてと同様に、
一見して移ろうもの、二次的なものである。
この象徴の中で、あなたたちは自分自身を崇めるがよい!
(第2幕第3場「黄金の子牛と祭壇」よりアロンのセリフ 長木誠司訳)

冷めた目をもっているために昂揚や陶酔から距離を置かざるを得ないアロン。見える目をもっているが、それは人間側からのもので神の側からは「像」「偶像」と否定的にとらえられてしまうもの。拠りどころなく不信と懊悩ばかりが身のうちをめぐる。神はシンパシーを感じる対象であろうはずはなく、同情という気持ちはどうしてもアロンのほうに向く。

今回、シェーンベルクのオペラ『モーゼとアロン』を聴いたことが縁で、旧約聖書の「創世記」と「出エジプト記」をあらためて読んでみた。聖書の世界では弟が選ばれ、兄が虐げられるケースが多いように感じられたのだが、どういうことなのだろう。長子特権というものがありそれを相対化するための回路がつくられているのだろうか。聖書は実際に読んでみると文化的にちがう出自を持つものであっても色々ひっかかてくるものがあって、気にしだすと深みにはまりそうでこわいところがある。

 

アルノルト・シェーンベルク
1874 - 1951
ピエール・ブーレーズ
1925 - 2016
長木誠司
1958 -

 

岩波日本古典文学大系89『五山文學集 江戸漢詩集』(岩波書店 1966 山岸徳平校注)から五山文学の漢詩を読む

五山文学は鎌倉室町期の臨済宗の僧侶たちの手による漢詩の作品。読み下し文をたよりに単に読み通すだけだと、パターン化された憂愁を詠った作品が多くて、悟った僧たちのくせに何をやってるのだろうと感じたりもするのだが、作品を書いた意図としては無聊の慰めだったり僧同士の挨拶だったりで、文芸的な表現の腕を真剣に競ったり自己表出に賭けたりするよりも軽い気持ちで向き合ったものなのかもしれないと思うようにもなった。書として楽しむという側面もあったのだろうし、必ずしも意味内容だけが大事ということもないのだろう。

 

寂室元光(じゃくしつげんこう 1290-1367)

山居

不求名利不憂貧
隠處山深遠俗塵
歳晩天寒誰是友
梅花帶月一枝新

名利(めいり)を 求めず 貧をも 憂へず
隠處の山は 深くして 俗塵を 遠ざかる
歳晩は 天寒くして 誰か是れ 友なる
梅花は 月を帶びて 一枝 新(あらた)なり

 

水墨画をしたためたりしながら、文字を含めた景色を淡く味わっていたのかもしれない。

新日本古典文学大系48の『五山文学集』では九名の作品掲載にとどまっていたが、岩波日本古典文学大系89には三〇名の作品が収録されていて、より幅広く五山文学の様子を知ることができる。

【付箋箇所】
明極楚俊の「山居」、虎関師練の「雨」「冬月」、寂室元光「山居」、夢巌祖応「二月六日賦所見」、龍湫周澤「掃葉」、中恕如心「寄友人」、惟忠通恕「倦鳥」、江西龍派「寒塘小景」、一休宗純「葉雨」、景徐周麟「鴉背夕陽」


山岸徳平
1893 - 1987

 

大西克禮『美學』上下巻(弘文堂 1959-60 オンデマンド版 2014)フモール(有情滑稽)のある美学

通読完了直後の印象をまず書き留めておくと、崇高と美とフモール(「ユーモア、有情滑稽」)の基本的カテゴリーから語られる大西克禮の美学体系は守備範囲が広く今なお有効である。特にフモール論はデュシャン以降の現代美術やコンセプチュアルアートなどにも向き合えるような力を秘めているように思う。『美学への招待』の佐々木健一アナクロニズムなんて言われる必要はまったくない。

大西克礼(おおにしよしのり)に『美学』(上下、一九五九~六〇)という名著があります。その全体は、美的体験論と美的範疇論からなっています。この目次構成は、それより一世紀前のドイツの美学の標準的な構成を踏襲しています。この明らかなアナクロニズムは、大西が美学の普遍性を確信したところから生まれたもので、かれの学問的環境のなかでは、一つの見識であったと思います。その美的範疇論において、幽玄、あはれ、さびなどの日本の概念を組み込んでいるのですが、当然、これらもまた普遍性をもち、異文化の人びとも理解しうるもの、と考えていたに相違ありません。
佐々木健一『美学への招待 増補版』第一章「美学とは何だったのか」p17 中公新書

 旧字旧仮名で書かれ、参照しているのもジンメルの芸術哲学あたりまでで、古いので素通り可能と新規読者層に思わせてしまうのはあまり褒められたことではない。大学外で活動せざるを得なくなった京大系美学の中井正一に対して、同時代に大学内で講座をもちつづけた東大系美学の大西克禮。二人の美学の教科書的作品は雰囲気はだいぶ異なるものの、それぞれ美の世界全体を見通せるように書かれていて、芸術一般に興味がある二十一世紀の人間にとってもありがたい財産となっている。いずれも、枝葉ではない、芯や幹となる芸術観を見せてくれているので、新しい事象に向き合う必要があるときは、そのしっかりした幹に新しい枝葉を接ぎ木して対応していけるような気にさせてくれる。大西克禮が基本的カテゴリーから特殊日本的な「幽玄」「あはれ」「さび」などの派生的カテゴリーを見事に分析していったことにならえば、自分がぶつかった新たな事象に対しても少しは明晰に理解し対応できるのではないかと思わせてくれる。

若し「幽玄」と「さび」との美的本質を理論的に(仮令実際上には、それらの「美的性格」が相重なる場合があるとしても)区別して考えることができるとすれば、曾てろんじたやうに、「幽玄」が一つの特殊なる「派生的美的範疇」として、本来「崇高」(das Erhabene)の「基本的範疇」に帰属し、又かの「あはれ」の「美的内容」が、同じ意味に於いて「美」(das Schöne)に帰属するのと同様に、「さび」という「美的概念」は、寧ろ「フモール」(Humor)の「基本的範疇」から派生し、若しくは導出されるものとして考えることが、妥当ではなからうかと吾々は思ふのである。而かも若し更に、それら三つの「基本的美的範疇」が、人間の美的体験(美意識)一般の本質的構造から、理論的に導かれて来るものとするならば、玆に又それら全ての基本的並に派生的の「美的諸概念」の間には、美学上体系的聯関を考へることも、可能になるわけではなからうかと考へられる。
(大西克禮『美學』下巻 第二篇 派生的美的範疇 「さび」p511-512 太字は実際は傍点、本文は旧字旧仮名)

大西克禮『美學』の肝は、「フモール」を基本的カテゴリーとして取り上げたところ。「崇高」と「壮美」をベースにした一般的美の枠組みに対しての破壊力は結構すごい。


大西克禮『美學』上巻 基礎論
序論 美学方法論の問題
 科学的美学の限界と哲学的美学
 「体験」の美学と「体系」の美学
 「芸術」と「美」
第一篇 美的体験の構造
 直観と感動
 生産と受容
 芸術美と自然美
 美的体験の価値根拠
第二篇 芸術の本質
 芸術の形式と内容
 芸術の体系
 芸術の様式

大西克禮『美學』下巻 美的範疇論
序論 美学の方法論的立場と美的範疇の問題
第一篇 基本的美的範疇
 美的体験と美的範疇
 「崇高」(或は「壮美」)
 「フモール
第二篇 派生的美的範疇
 序説 「基本的美的範疇」と「派生的美的範疇」
 「悲壮」(「悲劇美」)
 「幽玄」
 「優婉」(「婉美」)
 「あはれ」
 「滑稽」
 「さび」

美学 上巻(基礎論)[オンデマンド版] | 弘文堂

美学 下巻(美的範疇論)[オンデマンド版] | 弘文堂

 

【付箋箇所】

上巻(基礎論):
2, 47, 61,89, 92, 134, 178, 183, 186, 230, 233, 244, 262, 267, 272, 288, 306, 309, 338, 341, 349, 359, 361, 362, 396, 437, 443, 458, 461, 463, 465,

下巻(美的範疇論):
31, 38, 64, 76, 92, 93, 94, 106, 117, 123, 124, 149, 153, 162, 167, 178, 184, 188, 190, 215, 235, 253, 255, 267, 289, 291, 295, 300, 309, 356, 371, 376, 380, 391, 392, 395, 398,401, 412, 443, 447, 462, 468, 475, 489, 491, 506, 511

 

 

大西克禮
1888 - 1959

佐々木健一『美学への招待 増補版』(中公新書 2004, 2019) デュシャンのレディーメイド以降の美の世界をちゃんとうろつきたい市民層のためのガイド

お金は持っていないので購入という究極の評価の場には参加できないし、技術もコンセプトもないため供給側に立つこともできないけれども、なんとなく美術は好きという人のために書かれた美についての現代的な理論書。

センスなんてものは自分に一番しっくりしているものがいいに決まっているのだが、それを他者といかに共有できるかということで、楽しみの幅が拡がったり、論争を起こして闘いになったりもする。そこを調整したり、論争のとりあえずの争点となるための規範としての美学という領域。

美学というのは、美に対しての一般的な理論を構築しようとするものなので、個々の作品をベースにした個々人の受容の話にはなかなか接続しづらく、個別作品に向き合ったときの単純で純粋で個人的な好い悪いの派閥争い的なものにもなる感覚とはすこし離れてしまうとことがあり、純粋な直接的鑑賞の印象とは別物の感覚を呼び起こそうとする圧力がある。通常の感覚受容に対しての差異を呼び起こすことで、現代美術作品となっているものに対して、参照軸として呼び出される比較的安定した美学的評価軸。

恒久的に必要でありそうでいて、すぐにも変化してしまいそうな美的評価軸。

美は、ないことはない。

美は、現時点で、これと固定できるものでもない。

今現在で、過去からの流れのなかで、美という括りの中に括られものを、過去の言説の蓄積の中に、後ろめたくなることなく埋め込んでいくこと。それを邪魔せず、促進していこうとする美学側からの発信を、今この場で受け止めておくことが本書に対する敬意になるのではないかと感じながら、とりあえずの読了の区切りをつけてみた。

近代美学は美と藝術の自律性を大原則とし、これらを道徳(ひとの生き方、行動の仕方)や宗教から切り離しました。そこから引き出されたのが、aesthetic(美的=鑑賞的)な態度という規範です。すなわち、藝術作品の鑑賞において、作品の世界から距離をとり、現実的にコミットしない、という態度をとることです。(中略)しかし、道徳を度外視した場合、感動を語ることは不可能です。われわれを感動させるのは、ひとの生き方、その決断の仕方、ふるまい方などを措いてほかにはないからです。
(第9章 美学の現在 「ものがたり論」p236 )

自立的に存在しているとしているといわれる美と、現実的鑑賞的心理学的な取り結びの中に個々人にあらわれてくる美的な現象との双方を分けつつ記述しようとする美学側からの、腑分けの意志を伝えたいのであろう論述なのではないかと捉えてみた。

 

美学への招待 増補版|新書|中央公論新社

 

【付箋箇所】
6, 20, 31, 39, 49, 82, 87, 92, 95, 107, 116, 127, 161, 182, 208, 225, 226, 232, 236, 260, 274, 277, 280, 281, 290, 296

 

目次:
まえがき
第1章 美学とは何だったのか
第2章 センスの話
第3章 カタカナのなかの美学
第4章 コピーの藝術
第5章 生のなかの藝術
第6章 藝術の身体性
第7章 しなやかな応答
第8章 あなたは現代派?それとも伝統派?
第9章 美学の現在
第10章 美の哲学
あとがき

 

佐々木健一
1943 -

 

高畑勲『一枚の絵から 海外編』(岩波書店 2009) 先行作品との出会いがつくり出すあらたな制作欲に出会う時間

日本編と同時発刊の海外編。一冊での刊行であれば編集も変わってきたであろうが、日本で500ページ超の書籍を刊行するのは相当難しいことなのだろう。収録エッセイはスタジオジブリの月刊誌『熱風』におけるおもに絵画作品に関する連載がベースになっており、日本編/海外篇どちらか一方だけとなるとどうも居心地の悪い分割構成になってしまったと思う。両方読めばいいだけのことなのだが、販売購入についての制約を考えてしまうとほんのちょっと悲しい気持ちになったりもする。軽いものが好きなのは日本人の性向であるということことは、高畑勲『一枚の絵から』の本文の中からも読み取れることなので、良い面もあり制約として難しく感じる面でもあるのだなと考える。

「海外編」は「国内編」以外のものを対象としているので、「国内編」に比べてしまうと論の凝集度という点ですこしゆるんでいるという読後の感覚も残る。なにしろ海外という外側全部を対象としているので、自転方向順に近くから挙げていくと朝鮮、中国、インド、イスラム(ペルシア)、ロシア、西欧、アメリカ。中南米は落ちてしまったかもしれない。

ひとつひとつのエッセイの質としては日本編と変らない。視覚系伝統芸術の新興領域たるアニメーションの世界の開拓者でこそ持てる視点や知見を惜しむことなく直球で投げ込んできてくれる文章だ。多くの人は打ち返すことができない見えるかどうか妖しい気息も、落ちつきある常温の表出のなかに込められているようで、じっと息をひそめて感じ取りたいと集中した姿勢を取ってしまう、魅力ある文章となっている。取り上げる対象も、目利きが自分の肉眼で見たなかでの、これぞという逸品で、読者をその絵の前に連れて行く(あるいは引きずり込む)力は相当強い。幼少期、青年期を過ごした岡山市で足繁く大原美術館に通っては、エル・グレコの「受胎告知」やホドラーの「木を伐る人」に感動し、上京後は東京の各美術館の収蔵作品を見てまわる日々を過ごしたからこそ書ける文章が本作品の中にはある。

たとえば、国立西洋美術館収蔵のクールベの「波」について書かれた文章。

「線で描かれた平面の絵は、はじめから見てのとおり自分は仮の姿です、と言っているので、それを透して背後にあるホンモノを読み取ろうという気にさせやすいが、逆に陰影やマチエールで立体感をつけた絵は、自分をホンモノだと主張してしまうがゆえに、下手だと目も当てられないことになる」という私の考えからすれば、現状は歯がゆいかぎりだ。
たとえば海や波の表現で、もしリアルな感じをどうしても出さなければならないのならば、はじめからCGで誤魔化す前に、もっと真剣にクールベの態度に学ぶ必要がある。
クールベ:「波」p123)

近年のアニメーション作品制作にあたって「もしリアルな感じをどうしても出さなければならないのならば」というところから迫っていく高畑勲の創作についての魂には、誰でも見上げるべきものがあると思う。


【付箋箇所】
6, 13, 42, 76, 123, 129, 136, 147, 156, 161, 174, 194, 207, 254

https://www.iwanami.co.jp/book/b263359.html

目次:
徽宗:「桃鳩図」、「白釉黒花魚藻文深鉢の魚絵」
ジョット:「桃鳩図」
ポール・ド・ランブール他:「ベリー公のいとも豪華なる時祷書」の月暦絵から「二月」
アンドレイ・ルブリョフ:「聖三位一体」
ボッティチェリ:「ざくろの聖母」
エル・グレコ:「受胎告知」
ラ・トゥール:「大工聖ヨセフ」
レンブラント:「机の前のティトゥス
フェルメール:「デルフトの眺望」
アラビア:「白地多彩野宴図」
ヨーゼフ・ランゲ:「ピアノを弾くモーツァルト
申潤福:「園傳神帖」から:「端午風情」
ドーミエ:「ドラマ」
クールベ:「波」
ベルト・モリゾ:「砂遊び」
ゴーギャン:「海辺に立つブルターニュの二少女」
ゴッホ:「農婦のいる古いぶどう畑」
ロートレック:「イヴェット・ギルベール(ポスターの原案)」
セザンヌ:「赤いチョッキの少年」
ホドラー:「木を伐る人」
マティス:「ダンス」
フランツ・マルク:「森の中の鹿たちII」
モディリアニ:「おさげ髪の少女」
クレー:「蛾の踊り」
ルオー:「ピエロ」
ベン・シャーン:「ぼくらは平和がほしい(ポスター)」
ピカソ:「少女とオタマジャクシ パロマ
バルテュス:「部屋」
ディズニー:「『眠れる森の美女』の背景画」
ウルミラー・ジャー:「米つき」

 

高畑勲
1935 - 2018