読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

小林瑞恵『アール・ブリュット 湧き上がる衝動の芸術』( 大和書房 2020 )安心を得るための行為の成果

「生(き)の芸術」と訳されている「アール・ブリュット」。正式な美術教育を受けていない製作者たちの美術作品であり、「アウトサイダー・アート」とよばれる場合もある。日本においては精神の病を抱えている人たち、知的障害を持つ人たちの作品を指すことが多い。水玉アートで非常に有名で人気も高い草間彌生は、統合失調症を患いながら作品制作を行ってきているので、本書で紹介されている作家たちと親和性があるともいえるが、美術学校に通い、はじめからアートシーンに身を置いて活動しているため、わざわざ「アール・ブリュット」では括られず、単に現代アート作家と呼ばれる。

作品には、幻覚や不安感に苛まれることが多い人たちに治療の一環として絵画や立体などの造形作品制作を勧めるなかで生まれたものと、純粋に衝動から生まれたものの二通りがある。いずれも過剰なものをかろうじてバランスさせているところに特徴があり、見るものに見入らせる力がある。驚異的な緻密さや増殖のとまらない反復が世間的日常一般を超えている。また一方では、商品化の戦略が見えないところが素朴であり、どこか物足りなさも感じさせる。作品制作者たちにとっては作品を作る時間が純粋に安心を得るためのものであり享楽の時間でもあるので、商品としての価値などについては本人たちは無関心なのだろう。無心の享楽の時間から出てきた造形。記号を生み出すひとつの回路のようなものの現われ。

本書には40名の作家の270点を超える作品が収められている。治療にもなる美術。文字で同じことを期待するのはなかなか難しいなと思いながら鑑賞させていただいた。

www.daiwashobo.co.jp

 

小林瑞恵
1979 -

宇野重規『トクヴィル 平等と不平等の理論家』( 講談社選書メチエ 2007, 講談社学術文庫 2019 )社会制度とともに変容する想像力と象徴秩序

アメリカの民主主義』をメインに考察されるトクヴィルの思想。封建社会が崩れて民主主義が台頭し、抑圧されてきた庶民層が平等に考え発言することができるようになると、想像における自己像と現実の自己のギャップに苦しむことも可能になり、身を滅ぼしてしまうケースもでてくるということを暗に教えてくれる一冊。ロマンスのパロディとしてのリアリズムの泣き笑いの聖性が顔を覗かせもする世界。「ボヴァリー夫人は私だ」というフロベールの痙攣のようなことばも生み出してしまう平等ベースの想像世界。溶けだすし、浸食するし、浸食されるし、とても危ういが、それが自由とも捉えうる。
宇野重規の引用からトクヴィルの『アメリカの民主主義』の孫引きがこちら。

平等の時代には、人はその類似性のゆえに、互いに他の誰かに信頼を寄せることはできない。ところが、この同じ類似性が、彼らをして公衆の判断をほとんど無制約に信頼させる。なぜなら彼らには、誰もが同じような知力を持っているのに、最大多数の側に真理がないとは到底みえないからである。
(第二章 平等と不平等の理論家 「多数の圧政」p85 )

よかれと思って行動しても、どこか変な方向に展開してしまう近代世界。その近代のはじまりのアメリカの状況を分析し、グローバル化した今現在の世界の状況を知るためにも参考になるような世界と人間の構造を描出してくれている。重量感は左程ないので、厳密に行きたい向きには、トクヴィルの著作本編へのすぐれた誘いとなっている。古典としてのトクヴィルを手に取るきっかけとしては十分な摩擦力。もっと抵抗感のある分厚い著作もあっていいと思うが、600ページの本は日本であまり求められていないので、もの足りない向きは、トクヴィル本人の著作に向き合うのがベスト。

bookclub.kodansha.co.jp


目次:
第一章 青年トクヴィルアメリカに旅立つ
第二章 平等と不平等の理論家
第三章 トクヴィルの見たアメリ
第四章 「デモクラシー」の自己変革能力
結び トクヴィルの今日的意義
補章 二十一世紀においてトクヴィルを読むために

アレクシ・ド・トクヴィル
1805 - 1859
宇野重規
1967 -

 

メイ・サートン『独り居の日記』( 原書 1973 武田尚子訳 みすず書房 1991, 新装版 2016 )勇者をはぐくむ繊細な日常

小説家で詩人のメイ・サートン五十八歳のときの一年間の日記。小説上で自身の同性愛を告白したために大学の職を追われて田舎に引きこもった際の日々が率直に記録されていて、力づよい。生活と精神に芯のある人間の飾らないことばは、ときどき読み返したくなる。「自分自身であることの勇気」「永遠の子供」の「無垢」というのは訳者武田尚子のサートン評。なかなか近寄りがたい感じもある人物だが、文字を介したふれあいだと、一挙に心をつかまれる。

芸術とか、技術のいろはさえ学ばないうちに喝采を求め才能を認められたがる人のなんと多いことだろう。いやになる。インスタントの成功が今日では当たり前だ。「今すぐほしい!」と。機械のもたらした腐敗の一部。確かに機械は自然のリズムを無視してものごとを迅速にやってのける。車がすぐ動かなかったというだけで私たちは腹を立てる。だから、料理(TVディナーというものもあるけれど)とか、編み物とか、庭づくりとか、時間を短縮できないものが、特別な値打ちをもってくる。
(九月十七日)

正論だが、だいぶ手厳しい物言いだ。時代が約五十年下って、場所も日本の賃貸マンション暮らしとなると、機械についてはだいぶ発達してはいても、自然のリズムからはだいぶ離れ、より貧相でより忙しない生活になってしまっている。インスタントの成功もついつい欲しくなる環境だ。編み物とか庭づくりとかやる心の余裕もなく、やったとしても心底満足できるかどうかはなはだ怪しい。どうすりゃいいんすかねえと甘えたら、たぶん嫌な顔されながら𠮟られるだろう。メイ・サートンの日記の主題のひとつは孤独で、孤独の時間も短縮できないものであるけれど、特別な値打ちをもってくるまでうまく飲み込んでいられるものかどうか。メイ・サートンは孤独の価値も認めているので、孤独をうまく飲み込める技術の持ち主なのだろう。盗めるものであればその技術は盗みたいものだ。真似ができるとすれば読んだ本を思い浮かべて、引用しながら考えることくらいだけれど、孤独は強敵なのでたまに勝つくらいで良しとしなければいけない。

 

www.msz.co.jp


メイ・サートン
1912 - 1995
武田尚子
1933 -

森政弘『ロボット考学と人間 ―未来のためのロボット工学―』( オーム社 2014 )ロボットと遊びと能動力

森政弘は「ロボットコンテスト」の創始者であり、「不気味の谷現象」の発見者。仏教に関する著作も持ち、たいへん懐が深い。ロボットとの関わり方は非常に日本的な繊細さにあふれており、わき上がる情熱とともに静謐な慈しみのこころが伝わってくる。

日本文化には、茶道、書道、絵画、建築、能……など、すべてにおいて枯淡という高く深いレベルがある。
この境地に達すると、道具はただのtoolとかinstrumentではなくなる。(中略)
「道具」は「道が具われり」と読むわけで、今後は道具関係者だけに限らず、広く物を取り扱う技術者全部がこの「道」を心得る必要が出てきた。
(第4章  設計への警告―幸せとは何か― 4.9「複雑化への警告」 6 物との会話と安全 p241 )

「針供養」や「付喪神」がある日本の文化伝統や精神をロボット工学の世界にも実践的に植え付けてきた業績は偉大である。厳しくも楽しい道具=ロボットを極めていく世界。無我夢中の能動力が仕事を遊びに昇華させている。

www.ohmsha.co.jp


目次:
序 章 「ロボット考学」とは何か
第1章  自然と人間から学ぶ、ロボット工学―ロボットの設計思想―
第2章  ロボットから考える、人間というもの―ロボットの哲学―
第3章  ロボットの世界―ロボット独自の発展を考察する―
第4章  設計への警告―幸せとは何か―
第5章  ロボコンに学ぶ―「技道」の哲学―
第6章  ロボット工学者へ―創造的な研究のために―

森政弘
1927 -

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を 〈本〉と〈革命〉をめぐる五つの夜話』(河出書房新社 2010)

『夜戦と永遠──フーコーラカンルジャンドル』の佐々木中の五日間十時間ぶんのインタビューを文字起こしした本。インタビューベースの本にしては資料引用などもしっかりしていてよく出来ている。本を読む熱量に翳りが出てきたときに読むと勇気づけられる。

読んでしまった以上、読み変えなくてはなりません。読み変えた以上、書き変えなくてはならない。読んだことは曲げられない。ならば書きはじめなくてはならないのです。繰り返します。それが、それだけが「革命の本体」です。
(第4夜「われわれには見える―中世解釈者革命を超えて」 p136 )

「革命においてはテクストが先行する」、「テクストの変革こそが革命の本体」という基本姿勢が、読む力が弱っているときには力になってくれる。読むことしかできない私のような人間は、一回くらいは読んでおいたほうが良い。支えとなってくれる。「読み変え」、「書きはじめなくてはならない」というほうは、ちょっとハードルが高いけれど、読んでしまったら応えなくてはならないと思ってしまうことは致し方ないということも教えてくれる。

 

www.kawade.co.jp


目次:
第1夜 文学の勝利(「焦慮は罪である」
第2夜 ルター、文学者ゆえに革命家
第3夜 読め、母なる文盲の孤児よ―ムハンマドハディージャの革命
第4夜 われわれには見える―中世解釈者革命を超えて
第5夜 そして三八〇万年の永遠

佐々木中
1973 -

【雑記】2021年春、捨てる本を選ぶ

塚本邦雄:古き砂時計の砂は 祕かなる濕り保ちつつ落つる 未来へ

昨日の夜から捨てる本をより分けるために過去に読んだものの中身をざっくり再確認している。捨てる基準がよくわからなくなったりしながら40冊くらい廃棄候補を選んだ。本は捨てないと溜まる。塚本邦雄の歌集の一部は境界線上で揺れてる。

 

金春禅竹(1405-1471)『歌舞髄脳記』ノート 05. 「余説」

神楽・申楽・猿楽と和歌との切り離せない関係性を記憶にとめながら読み通す。

神楽の家風に於いては、歌道を以て道とす。歌又舞なり。此歌舞、又一心なり。形なき舞は歌、詞なき歌は舞なり。(「序」から)

 「序」にある歌と舞の関係性の定義から、最初から最後まで対象を説ききった凝集度の高い能楽書のまとめの部分。

05.「余説」で説かれた能の芸術の位と取り合わせられた歌

俗なる体   

 俗に荒き風をも、上士の心得てなす時  
 西行法師  枯野埋む雪に心をしかすればあたりの原に雉子立(たつ)なり
   ※枯野うづむ雪に心をしらすればあたりの原に雉子鳴くなり

先人の芸能の位   

世阿弥の父 山河を崩す勢ひありし  
 藤原定家  ゆきなやむ牛のあゆみに立(たつ)塵の風さへ暑き夏の小車
 藤原定家  花盛り霞の衣ほころびて峰白妙の天の香久山
   ※花ざかり霞の衣ほころびてみねしろたへの天のかご山

祖父 狂へる松の苔むす枝に霜の置けるがごとし  
 源径信  沖津風吹にけらしな住吉の松の下枝を洗ふ白波
   ※沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづえを洗ふ白波
 紀友則  君ならで誰にか見せん梅花(うめのはな)色をも香をも知る人ぞ知る
   
犬王大夫 ささめきかけて、物はかなく、とぢめなく、大に匂ひ、かげありけるなり  
 素性法師  見わたせば柳桜をこきまぜて都は春の錦成(なり)ける
   ※見渡せば柳桜をこきまぜて都ぞ春の錦なりける
世阿入道 曙の花に月の残れるがごとし  
 藤原定家  山の端を分きてながむる春の夜も花のゆかりの在明の月
   ※山の端をわきてながむる春の夜もはなのゆかりの有明の月
 藤原定家  花の香の霞める月にあくがれて夢もさだかに見えぬ比(ころ)かな
   
観世十郎 遠山に霞める花のごとし  
 藤原定家  足引の山の端ごとに咲花の匂ひに霞む春の曙
   ※あしびきの山のはごとにさく花の匂ひに霞む春のあけぼの
   
歌舞をなす位、二種   

心・詞幽なるかた   
 紀貫之  逢坂の関の清水にかげ見えて今や引くらん望月の駒
   
心・詞巧みにして、俗ながら興あるかた   
 藤原高遠  相坂 ( あふさか ) の関の岩かど踏みならし山立ちいづる霧原の駒
   
無上乃位、二種   

閑かなる位   
 在原業平  月やあらぬ春や昔の春ならぬわが身一つはもとの身にして

荒れたる位   
 藤原定家  嶺の嵐浦の波風雪寒(さえ)てみな白妙の秋の夜の月
   ※峯のあらし浦の波風ゆきさえてみな白妙の秋の夜の月
 藤原俊成  荒き海きびしき山の中なれど妙なる声は隔てざりけり
   ※あらき海きびしき山のなかなれど妙なる法はへだてざりけり
   
理について二種   

余情・理、ともに知られて・・・   
 西行法師  哀れいかに草葉の露のこぼるらん秋風立ちぬ宮城野の原

なにの理も知られずして・・・   
 慈円  わが恋は庭の村萩うら枯れて人をも身をも秋の夕暮
 藤原定家  つりあへず花の千草に乱れつつ風の上なる宮城野の露
   ※うつりあへぬ花の千草にみだれつつ風のうへなる宮城野の露


「余説」、『歌舞髄脳記』はここまで。

 

金春禅竹世阿弥娘婿)
1405 - 1471
世阿弥
1363 - 1443
観世元雅(世阿弥長男)
1394? - 1432