読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アンナ・アフマートヴァ詩集『レクイエム』(木下晴世編訳 群像者ライブラリー 2017)

スターリン圧政下で多くの詩人仲間を失い、夫と息子も逮捕拘禁され、執筆活動も禁止されているなか、ひそかに作られ、監視者に見つからないようにと紙には残さず暗記することで、後にまとめあげられた詩集二作。『葦 1924-1940』と『レクイエム 1935-1940』。苦しみと悲しみのなかで漏れ出てしまう言葉の必然性を受け止める。

すでに狂気はその翼で
魂の半ばを覆っていた
そして炎の酒を振舞い
黒い谷へと手招きする

私には分っている あれに
勝ちを譲らねばならぬこと
自分のもう自分のものとも思われぬ
うわ言に聴き耳をたてながら

(『レクイエム』第9詩篇 部分)

 

『レクイエム』はソヴィエト国内では生前出版されることはなく、死後しばらくたった1987年に出版された。ベルリンの壁崩壊は二年後で、それまで出版されなかったことに逆に作品の力を感じさせる。

 

アンナ・アンドレエヴナ・アフマートヴァ
1889 - 1966
木下晴世
1948 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

ロビンドロナト・タゴール詩集『螢』(原書 Fireflies 1928 ロンドン, 川名澄訳 風媒社 2010)

タゴールの詩は「すべてのものであるひとつのもの」としての神とともにあることうを詠う詩である。インド、ベンガル州生まれのタゴールの神はブラフマンを感じさせる。彼の詩で謳われる神は、裁く神ではなく、共にあり、創造し生成する神で、その汎神論的でおおらかな存在は、私たち日本人にとっても親和的な神である。この神は、たとえば次のように詠われている。

神はわたしのなかに見たがっている、神のしもべではなく、
 万人のために奉仕する神のすがたを。
 
God loves to see in me, not his servant,
 but himself who serves all.

 

第142詩篇の全篇、わずか二行の詩。アフォリズムのようでもあり、それでいて押し付けがましさや説教くさいところがないところが詩として魅力的だ。

詩集『螢』は上記引用のような短い詩句、一行から長いもので七行までにおさまってしまう短詩258篇から成る作品集で、風媒社刊行の訳書では、見開き右ページに英語の原詩を、左ページに訳詩を配置してある。日本語訳を読んで英語原文を眺めてみると、また少し違った印象になるのが面白い。原詩のほうが神との距離感が近いような印象だ。

258篇、一時間程度で全篇読めてしまうので、何度か繰り返しよんでも全然苦にはならない。読み返すたびに、違った詩句が新鮮に見えてくるのが楽しい。直近では、たとえば次のような詩句に目を留めている。

蝶のいのちは 幾月どころか ほんのひととき、
 そして 時間が足りている。
 
The butterfly counts not months but moments,
 and has time enough.
(第9詩篇

 

枯葉は 土にまみれて消えるとき
 森のいのちに参加する。

Dead leaves when they lose themselves in soil
 take part in the life of the forest.
(第249詩篇

 

 

現在品切れ中というのは、とても惜しい。


ロビンドロナト・タゴール
1861 - 1941
川名澄
1960 -

参考:

ジャック・デリダ『最後のユダヤ人』(原講演 1998, 2000, 原書 2014, 渡名喜庸哲訳 未来社 2016)

フランス領アルジェリア出身のユダヤ系フランス人という自らの出自に正面から向き合い語られた講演二本。

主に学校という公共空間をとおして、ユダヤ人という符牒のもとに疎外されることに恐怖のようなものを感じ、且つ、疎外されたものたち同士が保身のためにグループ化することにショックを受け、どちらにも与するべきではないという感覚とともに深く刻印されたユダヤ人たるがゆえの体験。一生を左右するトラウマとして生きつづけた幼少期の体験と、その後もユダヤ人たることを意識しつづけるよう強いられた世界のあり様を、サルトルの論考をなどを引きながら綿密に考察していく、緊張感あふれる講演である。

デリダの読みやすいとは到底言えない脱構築的読み返しの作業は、基本的には、ユダヤ人として、「余所者」として、線引きされ範例化され一定領域に固着化される一般的傾向に抗うための、必然性を持ったスタイルなのだということが、本書収録の二本の講演録から伝わってくる。

デリダの叙述スタイルも、扱われるテーマ、思索の対象も、個人で選択可能な範囲にある趣味というよりも、強いられたもの、必然的なものだということが、聴き手側(著作にあっては読み手側)に詰められてくるような言説になっていて、デリダの仕事はすべて繋がっている、一貫しているということを感じさせる、晩年の重みある仕事なのではないかと感じた。

研究者でもないものが、訳書をとおしてデリダの膨大な作品を読むというのは、かなりハードルが高くて、しかも世間的意味も見いだしづらい時間の過ごし方に終わってしまう可能性がとても大きくあるのだが、デリダの仕事の必然性というものに共感し賛同することができれば、まあ無駄でもいいかという思いにもさせてくれる。

なにものかに拒まれたなかにあっても、なお共生の可能性は開かれていて、完全に閉じられるような完璧さは、すくなくとも人間の技としては成立したことがないという、読み解きの実践と啓蒙としてのデリダの著作。フランス語が読めなくても、日本語訳書としてあらたに刊行してくれる訳者と出版社があるということには感謝しなければならない。

総体が形成されたり閉鎖されたりしないところにしか「共に生きる」はないと認めること、共に(副詞)生きることが「総体」(名詞、実詞)の、つまり実体的で、閉鎖され、自己同一的な総体の完全性、閉鎖ないし凝縮に異議を唱えるところにしか「共に生きる」はないと認めること。約束や記憶、メシア的なものや喪の作業なき喪や治癒なき喪の名のもとで、自分よりも大きく、自分よりも古いと同時に新しいような他者との、もしかすると到来する、あるいはこれから到来する、さらにはもしかするとすでに到来している他者との、非対称性、アナクロニー、非-相互性を受けいれるところにしか「共に生きる」はないと認めること。――そう認めるところにこそ、掟を超えた掟の正義があるのであり、・・・(以下略)
(「告白する―不可能なものを」p36-37 太字は実際は傍点)


我が生きる、我々がまず生きる、ではなく、我も汝も「共に生きる」が成立しないと、隠蔽された歪みによって、たがいの頸の絞めあいになるということを、デリダはつねに語っていたのではないかとふと思う。打算もあろうが開かれ不安定なその時々の絆の関係性が固定されてしまえば、絆ではない絆しの拘束が、結び直しを許さない人間(我)と人間(我)以外のものの階層性が秘かにしかも公然と作られる。目に見えない領域で目に見せないようにするとともに、見えるところでも感覚と思考の麻痺が、夾雑物を許さず認めない異様な潔癖症が幅を利かすようになる。

それは息苦しいし、感染という名称も持つ交流の一切ない密閉空間などありはしないと、デリダが言挙げした脱構築の作業は執拗に語り、残りつづけている。外気との風の交換の悪くなった言説空間に対しては、風向きを変える風穴を開ける隙を探る変位実践のロジックを活性化するような仕組みを潜ませて、何時起動してもよいような全方向走査に待機している。

面倒といえば面倒このうえない作業ではあるが、それがなくなってしまえば、世界は収縮し固定化して、安全弁となる余白、グレーゾーン、価値判断に馴染まぬ辺境がなくなってしまう。譬えていうなら、私がダンテの『神曲』いちばん好きな辺獄=リンボがなくなってしまう。リンボは無辺で、地獄・煉獄・天国の領域にも引けを取らない広大さと豊饒さのある空間であると思っている。私が死んだら会ってみたい人はおおよそここにいるはずで、たとえばカール・マルクスが死後何を研究しつづけているのかというのも、リンボをおいてほかでは確かめられないことだと思っている。

 

www.miraisha.co.jp

【付箋箇所】
36, 59, 81, 93, 114, 123, 140

目次:
緒言(ジャン=リュック・ナンシー
告白する―不可能なものを 「回帰」、改悛および和解
アブラハム、他者

 

ジャック・デリダ
1930 - 2004
渡名喜庸哲
1980 -

 

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

【金井美恵子を三冊】『岸辺のない海』(中央公論社 1974, 日本文芸社 1995, 河出文庫 2009)、『柔らかい土をふんで、』(河出書房新社 1997, 河出文庫 2009)、現代詩文庫55『金井美恵子詩集』(思潮社 1973)

不遜な作家の不遜な小説。

ロラン・バルトやフランスのヌーヴォー・ロマンに影響を受けつつ、書くことをめぐって書きつづける、日本にあっては稀有なスタイルを持つ小説を生みだしている金井美恵子。『柔らかい土をふんで、』が1997年出版なので、おおよそ30年にわたる作家活動のうちのいちばん前衛的な部分にとりあえず触れたという感触だけは得た。

映画狂でもある彼女の小説には、映画のシーンに触発されて書かれた文章が多く含まれ、私のような未鑑賞の読者にとっては、十分に読み取れず味わいきれないところもあるのだけれど、一つの物語に沿って展開するという小説に対する一般的な期待からは意図的に外れる言葉の運動と、断片的イメージとエピソード群が重層化していくよう計られた編集の作業によって、読み手の意識に問いかけ、挑発しつつ、それでも文芸作品としての文章をよむ歓びを与えてくれる、珍しい作品に仕上がっている。執筆時代によって異なる文体も、書くことをめぐって書きつづけるなかでの変遷を感じられて、感慨深い。容易にはブレない芯の強さを伝えてくれている。

各作品に通底する特徴については、現代詩文庫55『金井美恵子詩集』所収のエッセイ「作品のはじまりへ」に綴られた彼女自身の言葉によってみごとに表現され尽くされている。

書くことについて書くという魅惑的なポリフォニーは、自己循環の閉じられた世界を作るどころか、真に開かれた作品の空間を多声部の、いくつものインベンションで響かせるだろう。わたしたちに現前する作品は、そのようなインベンションにほかならない。
(「作品のはじまりへ」1968年3月号の「現代詩手帖」に初出 )

引用は、天沢退二郎の詩や石川淳の初期作品をめぐっての考察であるこのエッセイの末尾部分。20歳そこそこで、このような文章を書いてしまう金井美恵子の早熟さには驚かざるを得ない。そして、その読みそして書く意識の鮮烈さは、年を経ても色褪せることなく、むしろするどさを増しているようである。日本においては読み継がれていくのは難しいのではないかと私自身は勝手に想像していたが、図書館には比較的多くの金井作品が収蔵され、また河出文庫で10年ほどまえに出版され在庫もあるという状況なので、他の作家に比べれば、時を経ても魅力的で引き合いの多いわりと恵まれた作家なのだなと思いを新たにした。比較的読みやすい目白三部作シリーズや他方面での才能と感性を感じさせる各種エッセイが、ハードルの高そうな前衛的長篇代表作の普及にも一役買っているのであろう。

小説の内容は要約できるようなものでもないし、長篇小説の一部引用も紹介としてあまり意味をなしそうもないので、金井作品については勇気をもって実作にあたられることをお勧めします。

www.kawade.co.jp

www.kawade.co.jp


金井美恵子
1947 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

モーリス・ブランショ『ミシェル・フーコー 想いに映るまま』(原書1986, 豊崎光一訳 哲学書房 1986)

ミシェル・フーコー(1926-1984)が亡くなってから二年後に交流のあったモーリス・ブランショが沈黙を破って書いた追悼の書。ブランショがようやく亡くなったフーコーについて語ったということで、日本でも緊急出版されたあたりが当時の人文系学問界隈の熱を感じさせる。とはいうもののブランショのこの本は、ポイントの比較的大きな活字を使った訳書でで90ページたらずで仰々しいものではなく、どちらかといえば文章のスタイルも軽い。訳者の豊崎光一は、後記で、ブランショが、フーコーの仕事における深さの否定と表面の言語の可能性という問題系をとりあげているという指摘をしていて、本書でのブランショは、語る対象にふさわしいアプローチをしているんだなということを思った。

人々は、フーコーが、その点では文学産出のある種の考え方に従って、主体(シュジュ)という観念を単純明快に厄介ばらいしている、ということを確実と見做している――もはや作品はなく、作者はなく、創造の一体性はない、というわけだ。しかしすべてはそれほど単純ではない。主体は消滅するわけではない――そのあまりに限定された一体性こそが疑問となるのである、というのも、関心と探究を惹き起こすのは、主体の消滅(すなわち、消滅というその新たな存在様態)、あるいはさらに、主体を絶滅させはせず、主体についてその複数の位置と機能の非連続性のみをわれわれに差し出す散逸だからである。
(「非連続性への要請」p33-34 )

いまになって読み返してみると、作者という立場ではなくても、仕事をし何かしらを生産する労働者あるいは生活者という立場でさえも、散逸し、断片化し、漂流し、希薄化するなかでの、それにふさわしい準備と立ち回り方を促すような言説でもあったのだなというように感じた。

本書とは関係ないことだが、フーコーの主著は大冊で単行本だと寝ころんで読むのはつらい。ブランショも似たようなものだが、文庫で読ませて欲しいなと思っている。


目次:
個人的な言葉をいくつか
危険に晒された人
構造主義への訣別
非連続性への要請
知、権力、真実?
隷属から主体へ
内なる確信
今日、私とは誰か?
血の社会
知の社会
人種差別の殺人
性について語ることへの執念
おおわが友らよ


ミシェル・フーコー
1926 - 1984
モーリス・ブランショ
1907 - 2003
豊崎光一
1935 - 1989

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com


    

足立大進編『禅林句集』(岩波文庫 2009)

室町から江戸にかけて徐々に精練されていった禅語のアンソロジー『禅林句集』から抽出された全3410句からなる禅語導入書。

修行して悟りを得たいなどという思いはさらさらないのだが、気が軽くなるような気の利いた言葉に、あまり苦労することなく出会いたいという煩悩は、あふれんばかりにある。『碧巌録』や『臨済録』『無門関』を読むのはしんどいけれども、一字からいちばん長いもので二十八字に納まる禅語であれば、とりあえずはすらすら読みすすめていける。本文と訓み下し文だけで、現代語訳も解説もなしの編集方針なので、意味の分からぬ語句も多いといえば多い。しかしそこは読みとばして、機会があれば調べてみたり、原典に当たってみたりすればよいだけのことと納得しながら、いま沁みてくる言葉をピックアップするようにして読んでみた。

求心歇む処即ち無事。
しんやむところすなわちぶじ

意味することはよく分っていることではあるが、どうしたら求める心が歇んでくれるのかはよく分からない。自分にも世界にも無関心でありかつ熱狂しているような矛盾した境地に行けたら「無事」が輝きだすのかもしれないけれど、現時点では自分も世界も鈍色がかっていて、見通しが悪くて、まだ起こっていない有事を不安に思う時間が多い。

しみじみと孤独と不安をかみしめるのも有りかと思えるようになるまではまだ先が長そうで、だからといって大酒をくらって寝てしまうという長年の習慣も、そろそろ年齢的体調的に許されなくなりつつあることが分かってきたので、素面の夜の時間の過ごし方をいまから学んでいかなくてはならない。本好きではあるが本でしのげるかどうか。厄介な問題だ。

長く両脚を伸べて睡れば、偽も無く亦真も無し。
ながくりょうきゃくをのべてねむれば、ぎもなくまたしんもなし

素面で気持ちよく眠れる技能の開発を進めていかねばなるまい。

 

www.iwanami.co.jp

足立大進
192 -

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com

村岡晋一『ドイツ観念論 カント・フィヒテ・シェリング・ヘーゲル』(講談社選書メチエ 2012)

近代ドイツ哲学入門解説書なのに、かなり面白い。なにかトリックが埋め込まれているのではないかと疑いを持つくらいに、かろやか。風通しがよい感じ。哲学者ごとに主要著作一冊と押さえておくべきポイントを思い切りよく絞り込んだために出てきた効果なのかもしれない。

全四章、256ページ。

カントを扱った第一章の半分は、カント哲学普及の立役者ラインホルトのカント哲学継承と批判の紹介に割かれているので、実質五人の哲学者でドイツ観念論の理論的枠組みを描き強調提示してくれている。哲学者間の関係性と個々人の思考で抑えるべきポイントはここと、あっさりと、もったいをつけずに論じすすめているところが、読者にへんな負担をかけないので、好ましく感じさせるもととなっているのかもしれない。

1789年のフランス革命での市民社会の成立を予期し併走した思索者たちが、ドイツ観念論の思考の運動を刻んでいった、その根底に共通してあるものを「終末論的陶酔」と規定し、歴史の到達点に立ったうえでのさらなる一歩を「いま」「ここ」から歩むための支えとなるような思索を各人が行っていたと、村岡晋一はとらえている。

自然科学の成功という歴史的事実から導き出したカントの『純粋理性批判』における「経験」概念。

カントの関係性の哲学に形而上学的残滓を見てそれを乗りこえようとしてかえって歴史性を失ってしまったラインホルトの基礎哲学。
「存在概念としての自由」を基礎に置いた「自由の体系」を作り上げようとしたが、人間と世界の関係を敵対的なままで終わらせてしまったフィヒテ

「悪」と「時間性」を導入することで世界の生成を語り「自由の体系」を実現しようとしたシェリング

「他者」と「ことば」の導入によって「自由の体系」を実現しようとしたヘーゲル

ドイツ観念論の到達点たるヘーゲルは、「終わり」を語った思索家としてとらえられることが多いが、じつは「終わり」のあとの終わりなき「いま」「ここ」にこだわりつづけた人物であったということが指摘されて本書は閉じられる。

全体のまとめとしては「あとがき」の以下の部分が簡潔にまとまっていて、最後まで気が抜けていないところもよい。

ドイツ観念論」の使命は、歴史の「これまで」と「これから」のあいだに明確な境界線を引いて、いままさに生まれでようとする「新しい存在と新しい新しい世界と新しい精神の形態」を過去の重圧から解放してやることであった。ドイツ観念論の最終到達点であるヘーゲルの「絶対知」とは、精神のこれまでの遺産をひとたび括弧を入れて、いまここで<それでよい>と語るような知なのである。(「あとがき」 p236-237 )

なかなか「それでよい」と肯定的に言いきるのはむずかしいのだが、ドイツ観念論は、いまここを「これでよい」と言えるように導こうとしている思索であることが、本書によってよく伝わってきた。

bookclub.kodansha.co.jp

【付箋箇所】
14, 29, 37, 62, 70, 75, 78, 81, 89, 93, 97, 112, 121, 128, 133, 139, 145, 16, 166, 175, 177, 187, 195, 208, 219, 234

目次:
序章 ドイツ観念論とは?
第一章 カント『純粋理性批判』の「歴史哲学」
第二章 フィヒテの『知識学』──フランス革命の哲学
第三章 シェリング──自然史と共感の哲学者
第四章 ヘーゲル精神現象学』──真理は「ことば」と「他者」のうちに住む
あとがき

 

村岡晋一
1952 -
イマヌエル・カント
1724 - 1804
カール・レオンハルト・ラインホルト
1757 - 1823
ヨハン・ゴットリープ・フィヒテ
1762 - 1814
フリードリヒ・シェリング
1775 - 1854
ゲオルク・ヴィルヘルム・フリードリヒ・ヘーゲル
1770 - 1831

参考:

uho360.hatenablog.com

uho360.hatenablog.com