読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

秋保亘『スピノザ 力の存在論と生の哲学』(法政大学出版局 2019)

2014年の博士論文「本質と実在 ― スピノザ形而上学の生成とその展開」をベースに編み直された著者初の単著。慶応大学出なのに法政大学出版会というちょっと変わった期待のかけられ方を感じる著者で、あとがきによると、ライプニッツと中世哲学を専門領域とする山内志朗や、肩書的には人類学者兼思想家といったところの中沢新一の教え子のようで、どことなく異物感異能感を期待してしまう人物ではあるが、実際の著作はいたって標準的。地味ではあるが手堅く丁寧で芯が通ったまずまずの良書ではないかと思う。
未完に終わった『知性改善論』のアポリアである個別的な「もの」の存在を、『知性改善論』と主著『エチカ』から論じようとしている著作。本書と並行して岩波文庫畠中尚志訳の『知性改善論』全篇と『エチカ』を半分くらい読み返してみたが、90年前の『知性改善論』の畠中尚志の解説による「個物の認識」についての記述からそれほど進歩していないような印象をもった。
ただ、著者がスピノザの『エチカ』に見る決定的な論点、「潜在態、可能態という存在の様式」が排除されていること、「可能的なものの存在の余地」がないことと、「個別的なもの」が「様々なスケールのもとで入れ子構造をなしつつ、自然全体の部分を構成している」ひとつの「結節点」にほかならないということについては、この書物の存在とともに記憶しておくに値することだとも思った。

私たちは、『エチカ』が理解させようとした存在の内実を、結果を必然的に産出する原因であることに見定めた。この存在の力動性、その背後にいかなる基体をも持たない純粋な産出的活動性としての峻厳な現実――これはしかし生そのもの以外の何だというのか
(第四章 Ratio seu Causa――原因あるいは理由 第七項「絶対的合理主義」p170 太字は実際は傍点)

必然的に産出された生、そして活動、思考、書物。ある個別的なものの必然性の耀きを、外部の個別的な生の担い手としてじっくり見極めていかなければならないだろう。必然的に続けられていくであろうこののちの仕事にも注目していきたい。

 

www.h-up.com

【付箋箇所】
4, 10, 33, 43, 58, 59, 69, 77, 83, 105, 110, 112, 114, 121, 123, 168, 170, 173, 182, 192, 198, 200, 24, 217, 227, 250, 253, 256

目次:
序 論
第一章 スピノザ哲学の開始点――確実性の問題
第二章 実在と本質――スピノザ形而上学の問題
第三章 スピノザ形而上学の構造――本質・実在・力能
第四章 Ratio seu Causa――原因あるいは理由
第五章 個別的なものの実在と本質
第六章 本質・実在・力能――永遠性
結 論 力の存在論生の哲学

秋保亘
1985 -
バールーフ・デ・スピノザ
1632 - 1677

 

今野健『スピノザ哲学考究 普遍数学の樹立と哲学の終焉』(東銀座出版社 1994)

集合論から読み解くスピノザの哲学。幾何学的秩序に従って論証されるスピノザの『エチカ』の構成を、現代数学の世界からその骨組みを透視して見せた論考。合理のみで突き詰め、削ぎ落していった果てのスピノザ哲学のひとつの姿を見ることができて、なるほどと感心した。
作者に興味を持ったのでネット上で検索をかけてみたものの、2000年くらいまでスピノザ協会の会報に論文を寄せていること以上のことは分からずじまい。本書もおそらくは自費出版で、スピノザ協会内でもどのように評価されたかさっぱりわからない。30歳まで京都大学院理学研究科(おそらく数学科)に在籍していたことは巻末経歴から分かるが、それ以降の記載はない。学内には残らず市井の研究者として過ごしているなかで50歳を迎えた時の記念出版かと勝手に想像する。
たしかに注記もなく学内で流通するような論文の体裁でもなく、新書版でエッセイ的にさっくり読み通せる内容なのだが、おもしろかったので続編がないのがちょっと寂しい。また、博士課程までいって、学知もセンスを持っていても、学界やジャーナリズムの外にいると、人になかなか伝わらないし、執筆活動も継続しては続けられないということがうかがわれて、なかなか厳しい世の中だということが知れる。論考が読まれるということは、スピノザの至福とは違うところでの歓びなのだろうけれど、ないよりもあった方が断然いいとおもうのだ。

 


目次:

一 集合論
二 論理体系
三 証明図
四 現実的存在(物理的宇宙)
五 認識論
六 主観性論
七 超限論
八 若干のコメント
付録 「考究」解説

 


【付箋箇所】
48, 66, 85, 92, 113, 117, 133, 142, 175, 182


今野健
1944 -
バールーフ・デ・スピノザ
1632 - 1677


    

ジャック・ラカン『二人であることの病い パラノイアと言語』(朝日出版社 1984, 講談社学術文庫 2011 訳:宮本忠雄+関忠盛)

ラカンの初期のエクリチュール。初期からのフロイトへの傾倒を知るに貴重な資料5篇。講義録ではない書かれたものとしてのテクストの存在感があるけれども、難解といわれる『エクリ』以前の作品なので、論じ方はいたって素直。読みやすく、とくに強調したいと思われる部分も、結論部にまとまって書かれているので分かりやすい。分析家としての堅実な事象解析とフロイトへの深い傾倒が感じとれることも本書の特徴だろう。

ヒステリーと強迫神経症をひきおこすのは、自己愛が進行するなかへのエディプス複合の誘因的入射である。その典型は、フロイトがこれらの神経症の起源として一挙にそして見事に記述した事象(アクシダン)のなかに見なければならない。
それらの作用は、性が、人間の心的発展すべてと同じく、人間の特殊性を規定する伝達法則に従わされていることを、表明する。誘惑にせよ、暴露にせよ、これらの事象(アクシダン)がその役割を演ずるのは、主体が、彼の自己愛的《癒着》のなんらかの過程で事象から時期尚早に不意打ちされて、それらをそこで同一視によって組み立てるかぎりにおいてである。

「人間の特殊性を規定する伝達法則」とサラッと言ってのけるところに一種の凄味を感じる。このような強靭な思考のなかから、その後の象徴界の理論などの圧倒的な影響力を持った思想が導き出されていったのだろうと、ラカンのスタート地点である論文を読みながら漠然と思った。事象についてもテクストについても繊細かつ徹底的に読むことでしか新たな知見は生まれないということを、言外にラカンは語っているように思った。もしかするとそれしか語っていないのかもしれない。

bookclub.kodansha.co.jp

【付箋箇所】
46, 78, 90. 112, 123, 148, 163, 176, 185

目次:
症例エメ
≪吹き込まれた≫手記 スキゾグラフィー
パラノイア性犯罪の動機 パパン姉妹の犯罪
様式の問題 およびパラノイア性体験形式についての精神医学的考想
家族複合の病理


ジャック・ラカン
1901 - 1981
宮本忠雄
1930 - 1999
関忠盛
1942 - 1992

    

朝比奈緑+下村信子+武田雅子 編訳『【ミラー版】エミリ・ディキンスン詩集 芸術家を魅了した50篇 [対訳と解説]』(小鳥遊書房 2021)

様々な分野の作家に大きな影響を与えているエミリ・ディキンスンンの詩の世界を、各分野で参照引用されている作品を取り上げながら、原詩と新訳と解説で詳しく多角的にとらえている最新アンソロジー。音楽、アート、絵本、映画、演劇、詩と小説、書評、評論とエッセイ、インタビューと講演の9分野に分けて、ディキンスンの詩がどれほど愛されているか、どれほど深く読まれているかが紹介されている。50篇の詩に対して全466ページ、1篇あたりに9ページの分量が割り振られていて、その詩が書かれた当時のディキンスンと生地アマーストの状況、他の詩篇や手紙との関連紹介、詩に影響を受けた作家たちの仕事を手際よくしかも魅力的に案内してくれている。訳と解説が三名の役割分担によって構成されているが、担当者の違いによる肌触りの違いは抑えられていて、全篇通してじっくり落ち着いて読ませてくれる。本の厚みは内容の厚みときれいにリンクしていて、エミリ・ディキンスンにより近づけるとともに、エミリ・ディキンスンを読む様々な人の情熱からも影響を受けて、ディキンスンの詩の存在が、読み手としての私の中で大きくなっていくのが分かる。紹介された作品のなかで特に気にかかったのは、レスリー・デイルのアート作品『白い詩のドレス』(白いドレスにディキンスンの詩の言葉を印字させた彫刻の作品)、武満徹の曲とインスピレーションの元となった言葉、パウル・ツェランの翻訳だ。パウル・ツェランとエミリ・ディキンスンの結びつきは、長田弘とディキンスン、マリアン・ムアとディキンスン、吉増剛造とディキンスンなど、ほかの詩人たちとのカップリングを超えて、興味を湧きたたせる。全8篇、あるいは全10篇と言われるツェランの訳業は、機会があるなら是非とも見てみたい。

甘美な歩みよ、私たちが呼べばやって来る!
今の私は、一世紀かかっても進めるのはただの一歩
なんとゆっくりと風は――なんとゆっくりと海は――
なんとゆったりと、風や海は羽ばたいていることか!

こちらは50篇の詩のなかには含まれていないが、解説文の中で取りあげられたディキンスンの手紙の中の詩篇で、ミラー版の全集には詩として取られていない言葉(フランクリン版1607の詩篇)。ディキンスン53歳の時の手紙の中の詩篇で、この時は病気で動けない状態であったともいう。この詩から発想を得て書かれたのは、作曲家武満徹のオーケストラのための曲『なんとゆっくりと風は』。こちらもいつか聞いてみたい。

 

※2022/04/30追記

武満徹のオーケストラのための曲『なんとゆっくりと風は』は、「ハウ・スロー・ザ・ウィンド 13M39S」としてパーヴォ・ヤルヴィ指揮 NHK交響楽団演奏でソニー・ミュージックジャパンインターナショナルからでているCD『20世紀傑作選2 武満徹管弦楽曲』の三曲目に収められているのを聴いた。ディキンスンの詩の印象では日中の明るい太陽のもとで吹いている風であったが、武満作品は薄明時の仄暗さのなかで、時に光が洩れる神秘性にアクセントが置かれているようで、その変化の様相が印象深く残った。

www.tkns-shobou.co.jp

【付箋箇所】
56, 88, 89, 106, 111, 113, 115, 160, 191, 194, 237, 247, 255, 279, 285, 294, 309, 313, 314, 317, 321, 329, 336, 348, 350, 368, 373, 401, 403, 407

エミリ・ディキンスン
1830 - 1886

    

岡本裕一朗『ポスト・ヒューマニズム テクノロジー時代の哲学入門』(NHK出版新書 2021)

21世紀の哲学界での思想動向を図式的に手際よくまとめている導入書。思弁的実在論、加速主義、新実在論の代表的論者の思考の枠組みが、資本主義と情報技術、機械と科学と数学で、非自然化していっているような現代世界に、どう伍していくかが見られ問われている。俯瞰的視点で概観するスタイルで回遊しているこの鳥的視点の書物は、暗い時代にすすむべき方向を示せずに澱んでいる。書き手の問題ではなく、読み手の能力の問題ばかりでもなく、語られる対象の小粒さ、小物感が否応もなく際立ってしまうところに問題があるのだと思う。『現代思想入門』の千葉雅也であれば、ポスト・モダン期の主役級の思索家が去った後の時代における、後続世代の生き延びるための差異産出の思索活動という、同類相憐れむ的色艶がにじみ出て、語りの対象にも同情心に近い敬意も起こってきて、各人の著作に導かれる内密な誘いがあふれているのだが、本書はどちらかというと客観的評価と各思索が提供できるサービスの限界が明示されているパンフレットのようなもので、読みはじめる前の感性と一致しなければ、特段読む必要もないと納得させてくれるような記述に満ちている。閉塞感の強い状況の中で、ローコストで突破口を発見したいという無方向な読者層に向けて、過剰な期待はさせずに的確な案内はしてくれているのだが、選択肢があまりにも貧しく見えてしまうのが難点か。逆に、こんなところで遊ぶ必要はないと決意させてくれるきっかけを提供してくれる書物としては、かなり優れていると言えるだろうか。

とりあえずは、従来の哲学だけではなく、数学や各種科学、IT関係、環境問題、生命倫理、政治経済なども視野に入れないと意味ある思考にはならないし、思索の重点の置き方によっては外野から限界を容易に指摘されてしまうような粘着系世界にあることを、肌感覚で再確認できるような書物ではある。

www.nhk-book.co.jp

【付箋箇所】
43, 55, 92, 99, 109, 131, 161, 216

目次:
第1章 ポスト・ヒューマニズムという論点
第2章 思弁的実在論はどこからきたのか
第3章 加速主義はどこに向かうのか
第4章 新実在論は何を問題にしているのか
終 章 転換期の哲学者たち

岡本裕一朗
1954 -

 

中林孝雄訳『エミリ・ディキンスン詩集』(松柏社 1986)

ウォルト・ホイットマン(1819-1892)と並び称されるアメリカの国民的詩人エミリ・ディキンスン(1830-1886)の没後100年にあわせて刊行された日本語訳アンソロジー。およそ1800篇残されたディキンスンの詩のなかから154篇を選び、作品番号順(基本的には年代順)に並べ、紹介している。巻頭から年代順に読みすすめていくと、1861年から1863年の30歳を過ぎての三年間の質量ともに突出した期間の存在に関心が行く。南北戦争が勃発した緊迫した情勢のなか、個人的にも恋愛感情や身近な人の死別、自身の病気などで心騒ぐ日々がつづき、精神的危機にあったとも考えられるこの時期を、ひたすら詩の創作で言葉とともにくぐり抜けた軌跡を辿れる。作品部分246ページのうち、この期間のものが136ページ連続して占めているのだから、ディキンスンを読むときには中心に据える必要のある驚くべき期間である。伝記的事実はあまり残されていないようで、とくに本書では巻末に年譜があるだけで詩人の生涯についてはほとんど言及されていないので、多くを知ることはできないが、翻訳作品ではあっても作品自体からただごとではない雰囲気は感じ取れる。ある程度まとまった分量で、作品だけのインパクトから、詩人に対して関心を持つようになるのに適当な編集であると思う。

中林孝雄は1970年刊行のT・H・ジョンスン編の『エミリ・ディキンスン全詩集』を底本として、原詩の形を可能なかぎり再現しようと大文字を傍点付与で示し、ディキンスンに特徴的なダッシュもそのままに写したとあとがきに述べている。

453
非常な狂気は明敏なにとって――
もっとも神に近い正気――
非常な正気は――まぎれもない狂気――
ここでも、あらゆる場合と同様、
幅をきかせるのが多数派――
賛成なら――正気とされ――
反対すれば――立ち所に危険人物とされて――
鉄の鎖に繫がれる――
(1862年)
※太字は実際は傍点

ネット上で該当原詩を探ってみたが、ダッシュは省略されたバージョンのようであった。底本自体が違っているので単純比較はできないかもしれない。

WIKISOURCE
(Editor    Mabel Loomis Todd and T. W. Higginson)

en.wikisource.org

Much madness is divinest sense
To a discerning eye ;
Much sense the starkest madness.
'T is the majority
In this, as all, prevails.
Assent, and you are sane ;
Demur, — you're straightway dangerous,
And handled with a chain.

Public Domain Poetryも同一。

www.public-domain-poetry.com

 

表記が同じものとしては以下Poetry Foundationサイトがあるが、権利関係が残っているようなので直接引用は控える。

www.poetryfoundation.org

 

中林孝雄訳『エミリ・ディキンスン詩集』(松柏社 1986)

 

中林孝雄
1941 -
エミリ・ディキンスン
1830 - 1886

 

会津八一(1881-1956)『會津八一全歌集』(中央公論社 1986) ひらがな表記と語の分かち書きで伝える近代短歌の特異な詩的表現世界

昭和26年(1951年)の生前全歌集の886首に、拾遺作品264首を新たに付加した一冊(全1150首)。文庫本で手に入りやすい『自註鹿鳴集』よりも歌人の活動期間をより広くカバーしている。活動期間のわりに詠まれた歌の数はそう多くなく、一首一首に推敲を重ね彫琢した様子がうかがわれる作品が多い。万葉集良寛正岡子規を好み、自身の歌風も万葉的な写実優位の詠いぶり。比較的身近な動植物や古寺仏像など詠われる対象もわりと限られているが、個々の歌の味わいは清々しくしかも深いものが多い、そして會津八一のいちばんの特徴はひらがなの表記と語彙単位での分かち書きで、これはなかなかほかでは見られない独特な印象を歌に添えている。

歌人自身の言葉によると、詩歌というものはもともとは口誦されたものを耳で聞きとるのが本来的な姿であって、文字によって鑑賞されるのは時代が下り書字が導入されてからのことで、そのために本来的な音韻声調を軽視するようになるのであれば、由々しき事態であり、その傾向に掉さすためにひらがな表記を選択するに到ったということである。また語分かちの表記も歌の声調を明らかにするための手法として取り入れられている。書家でもあった會津八一の歌碑の図版などを見ると、草書体のひらがな表記ではあるが語分かちはされていないので、印刷物としての歌集のみで採られた表記法のようである。

ひらがなの語分かち表記の會津八一の歌を読んで、実際に感じるところは、漢字の表意性に頼ることができないために、歌を読む速度が格段にゆっくりになることと、空白によって語が独立して配置されていることによる言葉の物質的存在感の強調という、大きく二つの異質感である。ひらがな表記であるので目にはやわらかに映りながら、意味変換と鑑賞の時間的コストが増大するので、かえって浸透度と定着度が増して、滋味豊かに感じられる。また、漢字かな交じりの詞書が挿入されているので息つく間はままあるものの、見開き2ページに並べられた歌10首がすべてひらがなで占められているところなどに出会うと、不思議な異国感のようなものも湧き上がってくる。文字言語をおぼえはじめたばかりのような、すこし危うげな書字体験を反復しているような錯覚も出てくる。変わった読書体験になることは間違いない。記憶をたどると、石川啄木のローマ字日記を読んだ時と似たような感覚だろうか。新潮文庫岩波文庫の『自註鹿鳴集』も本書と同様にひらがな語分かち書きで歌が表記されていたが、今回のような不思議な感覚があまり残らなかったのは、漢字かな交じりの自註の分量が多かったことと、収録歌数が本書のほうが多いためであるからだろう。日本語が外国語化されているような変わった感覚を味わいたいのであれば、本書『會津八一全歌集』を選択したほうが良い。


ほろび ゆく ちとせ の のち の この てら に いづれ の ほとけ あり たたす らむ

 

さきだちて さら や くだけむ もの かきし われ や くだけむ よ の なか の みち

 

もの よみ そ もの な かたり そ もの もひ そ こころ かそけく こもらせ と こそ

 

さき はてて ひとひ の うち に うつろへる ましろき はな の こころ を ぞ おもふ

 

あかあかと いりひ は もゆる わが やど の もの なき へや の しろき ふすま に

 

秋艸道人会津八一
1881-1956

 

参考:

uho360.hatenablog.com