読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

2020-08-01から1ヶ月間の記事一覧

マルティン・ハイデッガーの技術論二篇「技術への問い」(1949,1955)「転向」(1949)(理想社ハイデッガー選集18 小島威彦・アルムブルスター 共訳 1965)

ヘルダーリンの詩篇に導かれるかたちをとって展開される現代技術論。 されど危険の存するところ、おのずから救うものもまた芽生う。ヘルダーリン「パトモス」(部分) 危険がまさに危険と言われるべき危険としてあるところには、既に救うものもまた生育して…

【横向き詩片】うずもれて、たがはずれ

うまれてこのかた ずれたかんかくが ものがたるものは れいがいとなれず てほんにあきられうずもれて、たがはずれ。

マルティン・ハイデッガーのヘルダーリン論二篇「ヘルダーリンの地と天」(1959),「詩」(1968)(理想社ハイデッガー選集30『ヘルダーリン論』 柿原篤弥 訳 1983)

ヘルダーリンを論じながら現代技術世界における自然とのかかわりを問う論考。 まずは詩人とは何か、何が大事かについて一九六八年の講演『詩』で説かれているところを見ると、以下となる。 肝要なるは、おのれのものの正しき有(たも)ちを完遂することであ…

マルティン・ハイデッガー『乏しき時代の詩人』(1945の講演, 理想社ハイデッガー選集5 手塚富雄・高橋英夫 共訳 1958)の読書感想を書いていたら淀川長治(1909 - 1998)のことを思い出した。

論文集『森の道』(1950)に原題「何のための詩人か」として収録された、ヘルダーリンに導かれるようにして展開されたリルケ論。「ドゥイノの悲歌」と「オルフォイスに寄せるソネット」などの後期作品を中心に取り上げている。 「乏しき時代」とはヘルダーリン…

マルティン・ハイデッガーのシュテファン・ゲオルゲ論『言葉』(初出 1958, 理想社ハイデッガー選集14 三木正之訳 1963)

原題は「詩作と思索 シュテファン・ゲオルゲの詩《言葉》に寄せて」。 言葉 (部分) あるとき私は よい旅のあとで 着いたゆたけく また 愛らしい宝石を一つもって 女神は長らく探し それから私にお告げをくれた、<さようなものは この深い底に 眠ってはお…

マルティン・ハイデッガー『詩のなかの言語 ゲオルク・トラークルの詩の論究』(初出 1953, 理想社ハイデッガー選集14 三木正之訳 1963)

ハイデッガーが傾倒した詩人はヘルダーリンとトラークル。トラークルはヘルダーリンの特に後期作品に影響を受けている面はあるものの、詩の印象はかなり異なる。ヘルダーリンは聖なるものに向かう印象が強く、トラークルは死と病に憑りつかれている印象が強…

西脇順三郎の詩を読む

筑摩現代文学大系33(1978刊行)で西脇順三郎を読んだ。 カラッとしてネバつきのない日本語ぽくない日本語。特にAmbarvaliaが日本近代詩の中に存在していることは、今になってもありがたい。乾した穀物のような感触の詩。 手 精霊の動脈が切れ 神のフィルム…

インドロ・モンタネッリ『ローマの歴史』(原書1957, 中公文庫 1979, 藤沢道郎訳)

間違っているかも知れない。古代の体制は雑で、命が軽い。イタリア人ジャーナリストがアカデミズムの制約から離れたところで、荘重で堅苦しい感じを取り除き、世俗的な評価の基準と読み物としての楽しさをベースに書きおこした歴史教養作品であると思いなが…

フランチェスコ・ペトラルカ『わが秘密』(岩波文庫 1996, 近藤恒一訳)

およそ思慮も節度も欠けることがらを思慮で治めるなんて できない相談。 テレンティウス(第三巻 三「愛の治療法」p198) 精神的危機に襲われた自分の魂を救済するため、出版の意図なくただ自分のために書かれた対話篇。真理の女神に呼び出されたアウグステ…

小林恭二『これが名句だ!』(角川学芸出版 2014)

名句を紹介する書籍の中では、独特のラインナップ。目次を見た段階で、小林恭二にとっては攻めの書なんだなと感じた。 【配分一覧】 杉田久女 (1890 - 1946, M23 - S21), p 9- 27:19頁。16句。川端芽舎 (1897 - 1941, M30 - S16), p 29- 42:14頁。 8句。…

野口米次郎「墓銘」(『我が手を見よ』 1922 より )

墓銘 彼の詩は黒色であつた、人が彼に問うた、『なぜ先生は詩を赤や青でお書きにならない。』彼は答へた、『くだらない事を言ふ人だ、赤も青も黒になりたいと悶えてゐる色ぢやないか。』彼の詩は黒色であつた、これに相違はなかつたが、彼には各行が赤にも見…

【雑記】希望退職、なめてる

希死念慮をもてぬ法人格に見切りをつけ無聊な 望みない望みを望まない望みらよ猫化して歩め 退く時は頭に靴下を被されていないか確かめて 職業訓練校前でまずは己の肉球をふにふにする

安東次男『芭蕉連句評釈』(講談社学術文庫 上巻1993 下巻1994)

連句は高等遊戯で、人を選ぶ。現代では廃れてしまったのも無理はない。逆に江戸時代によくこんなものが流行ったもんだと、安東次男の評釈書を読みすすむほど感心する。各種文芸と能狂言くらいしか楽しみがなかった分、はまった人はどこまでも深く潜っていく…

エリオット『荒地』(1922)の日本語訳比較 ※2022/01/01更新:二名追加で八通りの訳者訳文を併置

【2022/01/01追記】 2022年はエリオット『荒地』The Waste Land, 1922刊行百周年。2022年は事前に用意していた岩崎宗治訳、深瀬基寛訳の『荒地』から読みはじめる。今回の二名分を入れて八名八通りの訳文の併置比較となった。 エリオットの『荒地』はも…

ウィリアム・エンプソン『曖昧の七つの型』(原書1930, 1953 岩波文庫 2006)

批評は科学というよりも芸道で、学んだからといって誰もが道具や技術を獲得できるわけでなく、読解のセンスがものをいう。だから批評自体が面白く、扱っている対照が魅力的に見え、読者に自分も読んでみたいと思わせることができたら成功だ。エンプソンの『…

ウィリアム・シェイクスピア『尺には尺を』(小田島雄志訳 白水Uブックス)

エリオットの「ゲロンチョン」のエピグラフがシェイクスピア『尺には尺を』の第三幕第一場の公爵のセリフからだったので、全体も読んでみた。 Thou hast nor youth nor ageBut as it were an after dinner sleepDreaming of both. [思潮社 エリオット詩集で…

【雑記】たてよみミニマル

みたされていないけれどもたいくつでもない にっちゅうのがいしゅつはきけんなくらいと まなつのあつさがほうじられているあいだは るーむえあこんのおとをきいてねころんでる

モーリス・メルロ=ポンティ『シーニュ』(原書1960, 訳書 竹内芳郎監訳みすず書房 1969-1970 1・2分冊)

哲学と芸術と政治を語ったメルロ=ポンティ晩年の著作。五十代前半で逝ってしまった詩的哲学者の存在が惜しい。死ねないんじゃないかと思うくらい長生きしたときにどんな文章を書いてくれていたかと想像すると、その存在の大きさに尊敬の念が湧いてくる。サ…

鮎川信夫の詩(1946~1972の詩:鮎川信夫著作集第一巻 思潮社 1973)

最近T・S・エリオットの「ゲロンチョン」を注釈を見たり、ネットの記事を見たりしながらゆっくり繰り返し読んでいる中で、エリオットの訳といえば鮎川信夫のもあったよなあと思い、図書館で鮎川信夫著作集の該当巻を借りて読んだ。「荒地」と「プルーフロ…

【雑記】横臥禅

一行の詩として仰向いている

野口米次郎「想像の魚」(『最後の舞踏』 1922 より )

想像の魚 私の胸に底の知れない谷が流れ、その上に弓なりの橋が懸る。橋の袂で私の魂の腐つたやうな蓆を敷き、しよんぼりと坐つて、通行人を見かけては、糸の切れた胡弓を鳴らしてゐる。『穢しい乞食だな』とある人は叫び、またある人は無言の一瞥さへ与へず…

ギュスターヴ・フロベール『三つの物語』(原書1877, 蓮實重彦訳 1971)

フロベールの『三つの物語』を講談社世界文学全集の蓮實重彦訳で読む。「純な心」「聖ジュリアン伝」「ヘロデア」の三篇。ともに死を扱うフロベールの表現力・描写力の生々しさに驚く。以下引用箇所は、本編を読む楽しみを削ってしまわないよう一番の核心部…

野口米次郎「空虚」(『山上に立つ』 1923 より )

空虚 私の心が大きな空虚になる、水がなみなみと満ち、綺麗な魚が沢山居つて、今朝水中に落ちた星の玉を争ふ。すずしい風がそよそよ吹く、漣が波紋を作る、(ああ、私の心の空虚の池!)何処かにゐる私の霊はくすぐつたく感ずる。『動いてはいけない、水よ、…

ウンベルト・エコ『現代「液状化社会」を俯瞰する 〈狂気の知者(モロゾフ)〉の饗宴への誘い』(原書2016, 訳書2019)

ウンベルト・エコ最後の著作。2000年から2015年にかけて週刊誌に連載してきたコラムのなかから、アクチュアリティを失っていないテーマをピックアップしたものに、アラン・W・ワッツ『禅の精神』(1959)への注記「禅と西欧」を付して編集刊行したもの。コ…

柳瀬尚紀『ユリシーズ航海記 『ユリシーズ』を読むための本』(河出書房新社 2017)

一九九六年、岩波新書で発犬伝『ジェイムズ・ジョイスの謎を解く』が刊行されて二〇年、柳瀬尚紀訳『ユリシーズ』は完結することなく残されてしまった。発刊当時に読んで、今回二度目の通読となり、また、他のエッセイ、最後の完成訳稿である第十七章「イタ…

ジェイムズ・ジョイス『ダブリナーズ』(原書1914, 柳瀬尚紀訳 2009 新潮文庫)

読み通して残る印象および感想は、「これらの不如意、どう処理したらいいものか」という表現対象に対しての困惑と、表現対象を刻印させるジョイスの描写表現能力に対する敬意と憧れ。困惑は描かれたダブリンの冷え冷えとした重さ、暗さへのある種の近づきが…

竹田青嗣『完全解読 カント『実践理性批判』』(講談社選書メチエ 2010)

道徳をめぐるカントの思想は「物自体」の概念規定を含めて「純粋理性」を語る時よりも変わっている(トリッキー)と書き留めておきたい。「自由」の概念も常識的自由とはひどく異なっている。そして竹田青嗣による明晰な解読は、カントの特異性をますます際…

熊野純彦『メルロ=ポンティ 哲学者は詩人でありうるか?』(NHK出版 2005)

『知覚の現象学』を中心に語られる、メルロ=ポンティ導入の書。 【『知覚の現象学』「序論」からの引用】 感覚するとは、性質に生命的な価値を付与することであり、性質をまず、私たちに対しての意味、それが私たちの身体である、重みある塊にとっての意味…

野口米次郎「白紙一枚」(『沈黙の血汐』 1922 より )

白紙一枚私の言葉の詩は一種の弁疏(べんそ)たるに過ぎません、私のもつと大きな詩は人生の上に書かれました、否な、人生の上から消されました………今日一行、明日二行といふ工合に。私が人生の上に書いた大きな詩は今では殆ど白紙一枚であります。私の今日で…

ジェイムズ・ジョイスの絵本『猫と悪魔』(小学館 1976 丸谷才一訳 ジェラルド・ローズ画)

1936年8月10日に孫のスティーヴンに宛てて書き送ったお話をもとに絵本に仕立てた作品。ジョイスの愛らしさが際立つ一冊になっている。柳瀬尚紀に出会うまではなんだか難しい顔してジョイスを読んでいたけれど、完全にパロディ志向の人なのだなと、文章に向き…