2022-09-01から1ヶ月間の記事一覧
塚本邦雄の歌論・短詩系文学論における代表作。1950~1960年代、前衛短歌運動が最も盛んだった時期の当事者による批評的営為。短詩型文学を否定した桑原武夫の『第二芸術』 (1946) へ苦い思いを抱き、口語自由詩の作者であり短詩系文学の理論家でも…
『万葉集』(783年頃)から『古今和歌集』(905年)のあいだは和歌よりも漢詩が栄えていた。嵯峨天皇と淳和天皇のもとで『凌雲集』(814年)、『文華秀麗集』(818年)『経国集』(827年)という勅撰漢詩集が編まれ、その後も宮廷文化は上級官吏たちによる漢…
戦後の前衛短歌運動を二十一世紀にいたるまで駆け抜けた塚本邦雄を、短歌批評家としての立場から擁護し共に戦った菱川善夫による批評作品。 塚本邦雄が亡くなった2005年6月9日から二ヵ月余り、同年8月25日に刊行された追悼特集『現代詩手帖特集版 …
岩波書店が主催するセミナーの2時間×4回という枠組みで新古今集を正面から扱うことに無理を感じた塚本邦雄が、新古今集成立の周辺を語ることで、新古今集の特徴的な輪郭を炙り出した一冊。 前半部分で新古今風の母体となった六百番歌合と千五百番歌合にお…
藤原光俊撰の私撰集。 万葉時代から当代(定家撰『新勅撰和歌集』1235)に至る勅撰集に収められていない歌3826首を集めたという詞華集。 1251年成立の後嵯峨院下命、藤原為家撰の第10勅撰集『続後撰和歌集』全1371首に対抗したと言われる。 『続後…
シングルマザーとして出産・育児をする中で詠まれた現代日本の短歌。 俵万智の第四歌集と第六歌集。 同世代の歌人のなかで途切れることなく歌集を出しつづけ、商業的にも失敗していないところはやはりすごい。 根本にある奔放さと冷徹さがすこし浮世離れして…
永福門院の全作品387首と玉葉・風雅収録全作品の評釈と伝記からなる一冊。永福門院の全貌に触れることができる。歌ばかりでなく、伏見院亡き後の北朝持明院統の精神的支柱でもあった永福門院を伝記で知ることで、南北朝時代にも関心を持たせてくれる。歴…
はじめから大学勤務の国文学者という肩書しかない人物よりも、原稿料で生きてきた上で大学講師ともなったという肩書の作家の書いた歌人評のほうが、書き手の視点や思い入れが色濃く出ていて、独自研究と愛憎の年輪の深さを背景に、読ませる文章を提供してく…
『新古今和歌集』以後の停滞していた歌の世界に新風を起こした京極派の代表的歌人で、『玉葉和歌集』の下命者でもある伏見院。後鳥羽院とはまた違ったタイプの天才的歌人であったようだ。 撰者の一人で代表的歌人であった定家と反りが合わなかった後鳥羽院に…
和歌216首、漢詩588詩からなる藤原公任による秀歌秀句アンソロジー。『三十六人撰』の選出とともに後世に大きな影響を与えた選集。実際に読んでみると、おおらかで伝統的な詠いぶりを選んだ、王道を外れない、当時の保守的な詩歌の頂点を選りすぐった…
京極派を代表する歌人永福門院は伏見院の中宮で、政治的には南北朝時代に大覚寺統と対立した持明院統を支えた中心的人物。京極派の平明で心に染み入るような歌風を代表する歌人で『玉葉和歌集集』に49首、『風雅集』に69首採られている。激動の時代のた…
定家の曽孫にあたる京極為兼。定家晩年の嗜好を受け継ぎ、歌言葉の伝統を踏まえた優美で温雅な読みぶりを主張していた主流の二条派に対して、心のうごきを重視し、伝統的な修辞の枠にこだわらない言葉によって新しい歌の姿を確立しようとしたのが京極派とい…
平安末期から鎌倉初期の激動の時代に、長らく治世者の立場として特異な存在感を保っていた後白河院。当初、帝の器に非ずと言われ非正統的な芸道である今様に入れあげていた皇子が、権力争いのひとつの駒として担ぎ出されて皇位に着いた後、宮廷内のパワーバ…
藤原公任(966-1041)の『三十六人撰』に選ばれている36人150首についての口語訳と解説に、大阪大谷大学図書館蔵『三十六歌仙絵巻』の歌仙絵の紹介を付けてまとめた著作。『三十六歌仙絵巻』は江戸中期に写されたもの。36人150首の選択基準が著者…
後鳥羽院をして理想の歌の姿だと言わしめた藤原俊成の歌であるが、実際に読んでみるとどの辺に俊成の特徴があるのかということはなかなか指摘しづらい。薫り高く華麗な読みぶりで、華やかであるとともに軽やかさがあるところに今なお新鮮味を感じさせるが、…
王朝和歌の世界を決定づけた三代集第一の女性歌人は小野小町ではなく伊勢。小野小町は謡曲ほか様々な伝説として現代にまで残っているが、伊勢は伝説になるには輝かしすぎるほどの男性遍歴と子を残し、現実の裏付けのある恋歌と哀歌を残した。同時代歌人との…
名利関係なしの本格的な数寄者、能因。歌に耽溺する人物は歴史上数多くいるとはいえ「能因歌枕」のような後世に大きな影響を与えるほどの著作を持つ歌人はなかなかいない、俗世間から離れ歌枕を訪ね歩く漂白の歌人として、後の西行や芭蕉に大きな影響を与え…
罌粟枯るるきりぎしのやみ綺語驅つていかなる生を寫さむとせし夢の沖に鶴立ちまよふ ことばとはいのちをおもひ出づるよすが 塚本邦雄主宰の歌誌「玲瓏」が創刊されたのが1986年(昭和61年、チェルノブイリ原発事故があった年)、邦雄66歳、島内景二31歳…
岩波文庫で西行といえば、しばらく前までは佐佐木信綱校訂の『山家集』(1928)だったが、近年は西行歌の全体像に触れられる『西行全歌集』約2300首が新たに出ている。人気があってずっと読まれている歌人というのは、やはり恵まれている。『西行全歌集』…
西行嫌いを公言していた塚本邦雄が70歳を越えてから雑誌「歌壇」に二年間にわたって連載していた異色の西行評釈。百首のうち曲がりなりにも褒めているのは三分の一程度で、それ以外は完全に否定しているか、もしくはほかの歌人や西行自身のエピソードを語…
やや人生に疲れの見えだしたところで出会った男女二人のうちの女性側の視点から、互いの固定観念と日常性のなかに埋没していくことへの抵抗感を詠った詩、といったところだろうか。約50年前、著者32歳の時の作品で、五番目の詩集。男性側は左翼政治活動…
はじめての大規模な組題百首和歌の集成で、後の世の百首詠の規範とされ、思ってもみないような文化的拘束力も生じるまでになった歴史的な業績。たとえば和歌に詠まれる千鳥が冬の景物として定着するようになったのは堀河百首で冬の題に入れられたことによる…
式子内親王(1149-1201)が『千載和歌集』編纂の仕事を終えた藤原俊成(1114-1204)に依頼して執筆されたものとされる歌論。一般に歌をどのように詠むのがよいかという趣意を書きあらわすことを、当時たいへん貴重であった紙を贈られるとともに要請された。…
定家晩年の主張を引き継いだ平明流麗な歌を良しとする主流の二条派に対して、心のはたらきを重視し、それに見合う言葉を生み出すことを主張し、新たな和歌表現をもたらした、京極為兼を中心とする京極派が、京極派の歌人でもある伏見院が実権を握った時を見…
『新古今和歌集』(1205)編纂にに向けて当代の筆頭歌人23人に百首歌を詠進させ、後の世から見ればひとつの時代を画することとなった記念碑的な応制百首。 当初、俊成を擁する御子左家の歌人、殊に定家が詠進者の中に含まれていなかったところを、和歌の世界…
岩波文庫では191ページ、「『梁塵秘抄』という平安末期の歌謡集があって」とはじまる後半三章の後白河院の伝統芸能としての今様への関わりを論じている部分は、前半の和歌に関する論考との繋がりに緊密さが欠け、読者としては腰折れ歌のような印象を持っ…
後白河天皇が位につく前の評判といえば、今様狂いの文武ともに到底帝に相応しい人物ではないというのが通り相場であり、前帝の近衛天皇が若くして薨したために再燃された保元の乱にいたる宮廷内の勢力争いが顕在化しなければ、位に着くこともなかったであろ…
勅撰和歌集を『古今和歌集』から読みすすめていくと、第四勅撰集の『後拾遺和歌集』あたりから雰囲気が変わり、下命者であり実作も採られている各帝のことが気になり出してくる。 第四勅撰集『後拾遺和歌集』(1086)、白河天皇第五勅撰集『金葉和歌集』(1126)…