読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ナンシー・ウッド  『シャーマンの環』

ナンシー・ウッド
シャーマンの環―過去、現在、未来が溶けあう聖なる知識
訳 井上篤夫
図書館物件

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プエブロ・インディアンの教えから詩を紡ぐナンシー・ウッド。
同じ著者による『今日は死ぬのにもってこいの日 』も読んでいるには違いないのだが、はっきりとは記憶に残っていない。

自然の懐に抱かれている感覚を得て生きるといった煽り文句をまとっているネイチャー系の書籍に、もしかしたら何か得られるかもと期待して購入・通読はしてみるものの、自然にかかわることに面倒さを感じて勝手に疎外感を味わって、ほぼ得ることなしに終わってしまうことのほうが多いタイプの私。

自然のものに触れるのはどこかしらハードルが高いのだ。
「自然とわたしたちとのつながり/それは魂と魂の対話」(p.67「つながり」)
個人の体質の問題が大きいのかもしれないが、そもそも自然が対話の対象には浮上して来るなどということはほとんどない。呼吸で大気に触れること以外、それほど容易に自然に触れることはないと感じているくらいである。
「手に入れた岩から 神聖な黒曜石の矢じりを作るとき/男は石に話しかけた 石もそれに答えてくれた/話をしないと 石は矢じりになってはくれず/人は食べることもできなくなる」(p.28「われらが祖先の聖なる歌」)
食を得るために使用する道具を直接自然から調達している者たちとは違い、私の主たる業務である事務作業を行うには、電力、作業端末、ネットワーク環境が必要で、その電力、作業端末、ネットワーク環境たちとそれなりに話をしようとすると、とてつもない知識と資金が必要になる。魂に到達するまでに理解しなければならない構成物やもろもろの関係は私が生きる世界では多すぎるのだ。多すぎるからといって私が関わろうとするものを理解する手続きをすっ飛ばすと、関わろうとしている対象とは何かがきっと違ったものになってしまう。自然といえばいえる水のようなものをふくめて、私の周りにあるものはみな人為的に提供されているものばかりだ。それゆえまともな対話には時間がかかるし、対話に向かう心理的なハードルも物理的なハードルも極めて高い。手持ちの言葉で会話がうまく成り立つ自信はない。
電気、都市ガス、上下水道、家電製品、道路、スーパーの食品、ドラッグストアの薬、本屋の本、図書館の本、パソコン、スマホ、ネットワーク環境、ソフトウェア、電波、雇用契約、納税、行政サービス…

魂の話ではなく経済の話からはなしはじめるのが常だ。

ナンシー・ウッド
1936 -
井上篤夫
1947 -