読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

夏目漱石の漢詩を読む

飯田利行著
新訳 漱石詩集
1994
出版社:柏書房

新訳 漱石詩集 柏書房株式会社 ノンフィクション・歴史・古文書の出版社

図書館物件(品切れ・重版未定)
出版社によれば「唯一の漱石詩全訳本」とのこと。
訳文は超訳の部類に入るかもしれません。

例えば大正五年十月九日の作品(本書364頁、詩 149)では

本文読み下し(最終二行):

古寺を訪ね来たれど 古仏なく、
筇(つえ)に倚り独り立つ 断橋の東(ほとり)に 

訳:

群れにはぐれた鴉にも似た私は、これまで古寺遍歴の旅を重ねてきたけれども、目ざす本尊様には、ついぞお目にかかれず、一本の杖にすがって、ただひとり絶対境のほとりに立っている。つまり私は文芸の徒の行きつくところの悲しい運命を自覚し、かくて道(絶対境)を求める念が、いよいよ熾烈となってきたようである。

 となっています。


読解を補助してくれる訳文自体はありがたいものですが、
著者の漱石に対する思い入れが強いあまり、詩に直接含まれていない語彙(絶対境とか)によって著者訳が装飾されているのがいささか気にかかります。それから、もう一つ気になるて点として、著者は曹洞宗の僧侶だったこともあって、訳文や解説にポジショントークが入り込んでいることがあげられます。これについては心穏やかに距離をとって読み進めるのが無難かと思いました。
ポジショントーク例(詩 99訳):

道書とか法偈を頼りとする公案禅又は看話禅では駄目。只管打坐の黙照禅でなければならないということになるのではございませんか。

 (訳文中の「公案禅」、「看話禅」、「只管打坐の黙照禅」は原詩には出てきていません)

 

ひとつの詩は、原詩、読み下し文、著者訳文、解説の四カテゴリから紹介されていますが、詩によっては解説はありません。解説は語彙そのものの注釈ではなく、詩が書かれた背景や、語彙ベースで関連している他作品の紹介に重きが置かれています。私にとってこちらの本は漱石漢詩に関しての一冊目なので、とっかかりの現代語訳がついていたことに一番の価値がありました。それで、解説は飛ばし読みすることも多かったのですが、今後きちんと注釈のついた別の何冊かと読み合せることで、この著作の存在価値も増してくることもあるだろうと期待をかけています。

 

私が今回、漱石漢詩の本を手に取ったのは、『道草』29章の「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰まらないね」という作中発言を展開してくれるような詩行が漱石漢詩の中にあるだろうかという好奇心があったからでした。
収穫としては英国留学前の青年期の作品二点、と、先出の「詩 149」を含む死期近くの二点でした。
死期近くの「詩 149」については、冒頭2行が詩の技巧について詠っていることもあり、私は本書が推している宗教ポジションからではなく、文学ポジションから解釈したい気分でいます。つまり、この作品は、禅的精神世界(悟りの世界)に関する表出ととらえるのではなく、『明暗』に至るまでの10年間、小説家として、日本語の表現世界の未踏の突端にいつのまにか独りで立ち、今この瞬間にも荒地であり且つフロンティアでもある表現地点に臨んでいるという漱石の姿勢をシンボリックに表現しているととらえ、記憶したいという気分でいるということです。


「詰まらないね」といっても離れられるわけでもなく、無理に面白くしようとしてもうまくは行かず、「功名」もなく、悶々と日々読み書きする中で、この世の「本来」の「面目」がふと零れ出る瞬間を、思いもよらぬ「魚」や「蝦」とともに迎え、ともに過ごす。そんなふうに「忽然と復活」する時をほのかに予期できるのであれば、仮に「断橋の東に」「独り立つ」境遇に近いものが出てきたとしても、なんとなく身を支えることを自分に強いることくらいはできるかもしれないなあと思ったりします。漱石居たし、ちょっと読んだし。出来する竜は泥鰌サイズかもしれないし、河川のスケールであるかもしれない。それでも文字でしかないものが、なにものかを喚起してくれる瞬間は確かにありそうです。
「学問ばかりして死んでしまっても人間は詰まらないね」といっても、とりあえず何かは読んでしまうので、それなりに筋を通しながら、読書を楽しむというところへ着地して、怒られたらもう一度読み直してみる、その繰り返しでしょうか。

愚かさを抱え、悟ったなどとは思わず、地上を歩みすすんでいく、

 

飯田利行 
1911 - 2004
夏目漱石 
1867 - 1916