読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

オイゲン・ヘリゲル『日本の弓術』(1936)

ドイツ神秘主義のマイスター・エックハルトが説いた「離繋」(りけ Abgeschiedenheit)の探求のため仏教にも関心の領域を広げていたヘリゲルが、日本の大学に招かれ来日した際に仏教精神を分かち持つ弓道を習い、求道の果てに武士道の精神に到達したということを語る講演録。

仏教ならびにすべての術の錬磨が要求する沈思とは、単純に言うならば、現世および自己から決別ができ、無に帰し、しかもそのためかえって無限に充たされることを意味する。これが幾度も修練され、実際に経験されるならば、そして、決定的に理解された思想としてではなく、意識的に持ち出された決意としてでもなく、非有の中の現実の有として生きられるならば、これは死をも、また意識しながら死んで行くことをも、沈思そのものに対するように少しも恐れないあの自若とした落ち着きを生み出す。じじつ、人間の生存がただ数瞬にして取り消されるものにせよ、あるいは持続するものにせよ、いずれにしてもそれは非有の中の有の実現に移されることに変わりはない。
同時に、ここにかの武士道精神の根元がある。日本人がこの精神を己にもっとも特有なものとするのは当然と言っていい。(p64-65 太字は実際は傍点)

無私のなかでの自己実現

来日時の通訳兼弓道仲間である小町谷操三と、本書訳者の柴田治三郎のヘリゲルの講演内容についての温度差が興味深い。ヘリゲルの精神的深さをたたえる小町谷操三に対して、神秘説や弓道や武士道や禅に距離を感じている柴田治三郎。両者の間を揺れながら考えをすすめることが私自身にとっては正解かと思う。

 

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オイゲン・ヘリゲル
1984 - 1985
柴田治三郎
1909 - 1998
小町谷操三
1893 - 1979