読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

宇野弘蔵 『資本論』と社会主義 (1958, 1995)

学問と科学の擁護。厳密さをベースに論考しつづける姿勢に頭が下がる。

著者主張:

要するに『資本論』を原理論とし、それから段階論を経て、社会主義的変革の実践活動に役立つような現状分析にいたるという社会科学に特有な方法を明確に認めるということが、現在問題になっている公式主義からの解放の道だと僕は考えるのです。(「『資本論』と社会主義」p231)

 

私にとっての本書のピーク:

資本主義は、われわれの社会生活の根柢をなす物質的生活資料の生産を商品形態を通して実現しているので、その自由は根本的には商品交換の自由によって規定されざるを得ないのです。いわゆる個人の自由もそこに基礎があるわけですが、これはわれわれの社会生活の経済原則からの自由を意味するわけではありません。寧ろ反対に経済原則に対しては盲目的とならざるを得ない関係にあるので、商品経済がこの原則を処理し得なくなると、その自由も制限されて来るわけです。法律や政治における自由もこの関係を反映するのです。社会主義は、資本主義は勿論のこと、従来の一切の階級的社会におけるこの経済原則の歴史的形態を廃棄して、この原則そのものの必然性の「認識のうちに、またその認識とともに与えられる可能性、すなわちこの法則を一定の目的に対して計画的に作用させる可能性のうちに」自由を実現しようとするわけです。(中略)資本主義はその生産力の増進によって「自由の領域」を拡大したのですが、それは社会的には決して自由に使い得るものにはしていないのです。経済原則には盲目的にしたがっているのです。個人の自由もその上にあるわけです。(「社会主義社会における自由」p143-145)

 

本書刊行後六十年たった二十一世紀の縮小しつつある日本、そして成長の限界が近づきつつある閉塞感のある資本主義の世の中で、経済原則に従いながらの自由と、経済原則からはすこしはずれたところにあるとされている自由(金銭を伴わない関係の中での自由)が、今現在よりもなるべく目減りしないよう、変動を気にしつつ、先達の本を読みながら過ごす。そして、本の力を借りながら、必要以上に失望しないよう、事前に期待値を吟味する。

 

『資本論』と社会主義 - こぶし書房

 

内容と初出:
序章 マルクス経済学とマルクス主義哲学
第1章 理論と実践 (1949.02)
第2章 歴史的必然性と主体的行動 (1949.07)
第3章 政治的実践と日常的実践 (1949.11)
第4章 経済学者の実践 (1950.04)
第5章 社会科学における研究の自由 (1950.09)
第6章 社会主義社会における自由―アメリ社会主義者の討論に寄せて (1951.11)
 追記 ふたたび「社会主義社会における自由」について (1952.08)
第7章 経済法則と社会主義スターリンの所説に対する疑問 (1953.10)
第8章 帝国主義論の方法について (1955.11)
第9章 『資本論』と社会主義 (1957.04)
解説 降旗節雄

 

宇野弘蔵
1897 - 1977
降旗節雄
1930 - 2009