読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

橋本治『ひらがな日本美術史5』(2003)

江戸、18世紀後半の美術。「魅力的なもの」は「へんなもの」であるという主張。

 「へん」とは、「その人間のあり方」である。だからそれを、「個性」といってもいい。しかし「個性」というのは、いまとなっては尋常で、そうそう特別なものでもない。「ただ単に個性的なだけの人」というのは、いくらでもいる。そしてそこでは、「へん」が死んでいる―つまりは、存在感が希薄なのである。「魅力的」というものがどういうことかを考えてみればいい。「魅力的」とは、「その人間のあり方がとてもよく出ている」という状態なのである。
「その人間のあり方がとてもよく出ている」ということは、時として「へん」でもあるかもしれないが、「とても魅力的」である。その意味で、今までこの『ひらがな日本美術史』で取り上げたものは、すべて「魅力的であるかもしれないがへんなもの」なのである。「魅力的」であることを、一度「へんなもの」として捉え直してしまうと、この『ひらがな日本美術史』の見方は出来上がるのである。(その七十六「へんなもの」p37 太字は実際は傍点)

 突き抜けた存在をめでる心性。

「現実はああだが、まァ、それはどうでもいい」―浦上玉堂はそう言って、だからこそこの絵は「豊か」なのだろう。眠れる前衛・浦上玉堂は、「まァいいさ」という。豊かさとは、その包括力かもしれないと、私は思うのである。(その八十「前衛的なもの」p91)

現実のその先を表現する芸術。

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目次:
その七十五 “終わり”の始まりとなるもの 円山応挙筆「雪松図屏風」
その七十六 へんなもの 曾我蕭白筆「群仙図屏風」「商山四皓図屏風」
その七十七 もしかしたらそうかもしれないもの 曾我蕭白筆「群仙図屏風」「唐獅子図」
その七十八 曲がり角に来ていたもの 長沢蘆雪筆「龍虎図襖」と与謝蕪村筆「夜色楼台図」他
その七十九 ひとりぼっちなもの 伊藤若冲筆「動植綵絵」「群鶏図押絵貼屏風」
その八十  前衛的なもの 浦上玉堂筆「奇峯連聳図」
その八十一 全盛なもの 喜多川歌麿筆「當時全盛美人揃 瀧川」
その八十二 ルネサンスになる前のもの 喜多川歌麿筆「婦人相學十躰 ポッピンを吹く娘」
その八十三 歴史のようなもの 「盆栽」
その八十四 キーワードがないもの 「葵紋散牡丹唐草蒔絵乗物」「初音の調度」
その八十五 携帯電話が学ぶべきもの 「印籠」「根付」
その八十六 「似ている」が問題になるもの 東洲斎写楽の役者絵
その八十七 「似ている」が問題になるもの 第二番目 東洲斎写楽の役者絵
その八十八 「似ている」が問題にならないもの 勝川春英筆「七世片岡仁左衛門高師直
その八十九 時代を二つにわけるもの 初世歌川豊国筆「役者舞台之姿絵」

橋本治
1948 - 2019