読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

橋本治『ひらがな日本美術史7』(2007)

明治以降の美術。「近代の寂しさ」という表現が深く刺さる。

近代の「道」の寂しさは、誰にとっても開かれているようで、結局は「偉大な一人」になるための道でしかないからではないか。新しく開かれた近代になって、「芸術」というオープンな領域を開いたはずなのに、でも―というところが、私にとっての「近代の寂しさ」である。(その百九 《「君の行く道は」的なもの part2》p87)

 このあたりの事情は、佐藤優が『島耕作』シリーズや日本の官僚制度と絡めて語ろうとしていることにも繋がっていそうな気がして気になる。

また本巻では、近代以後の「日本化」、「弥生的なメルティング・ポット」についても再言及されていて、興味深い。

島国日本に、海の向こうからいろんなものがやって来る―それは当たり前である。やって来たいろんなものを、日本人は日本化してしまう―これが近代以前の日本文化史の常識である。鎖国か、鎖国に近い状態にしてしまえば、四方を海に囲まれた日本では、すべてが「日本化」という鍋の中でとろ火で煮込まれ、「日本文化の一種」になってしまう。ところがしかし、近代以後にこれは不可能になる。日本はオープンになりっ放しで、「とろ火で煮込む」が成り立ちにくくなる。近代での「日本化」は、多く「本物を知らない貧しい日本人による土俗化」と考えられ、「本物」を求める人は、あくまでも「本場の海外」を第一等のものと考える。近代以前に、「日本化」は放っておけば自然と成り立ったもので、これを「いけない」とするような考え方は主力になりえなかった。しかし、近代以後になると、「日本化はいいことなのか、悪いことなのか」という議論が生まれる。(その百十六「海の向こうから来たもの」p172)

 近代以後は難しいし、面倒くさい。でも、それはいまを生きていることと同義なのかもしれない。

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目次:
その百四  近代的なもの 井上安治筆「築地海軍省
その百五  鮭が語るもの 高橋由一筆「鮭」
その百六  日本人の好きなもの 黒田清輝筆「湖畔」
その百七  近代日本の指導者達が求めたもの 狩野芳崖筆「大鷲」「悲母観音」
その百八  「君の行く道は」的なもの 高村光雲作「老猿」と高村光太郎作「手」「柘榴」
その百九  「君の行く道は」的なもの part2 岸田劉生筆「切通之写生」と青木繁筆「わだつみのいろこの宮」
その百十  「君の行く道は」的なもの 完結篇 川端龍子筆「源義経ジンギスカン)」
その百十一 美術とは関係ないかもしれないもの 「旧東京市本郷区駒込千駄木町五十七番地住宅
その百十二 「アール・デコ」なもの キネマ文字
その百十三 ただ「私は見た」と言っているもの 今村紫紅筆「熱国の巻」
その百十四 堂々たるもの 竹久夢二の作品と梶原緋佐子筆「唄ヘる女」
その百十五 堂々たるもの 2 竹久夢二筆「立田姫
その百十六 海の向こうから来たもの 梅原龍三郎筆「雲中天壇」と佐伯祐三筆「扉」
その百十七 讃歎するもの 棟方志功筆「鍵版画柵」「釈迦十大弟子
その百十八 「マンガ」に属したもの 谷内六郎の作品と六浦光雄の作品
その百十九 卒業式のようなもの 亀倉雄策作「東京オリンピック」ポスター

橋本治
1948 - 2019