読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

高村薫『空海』(2015)

高村薫空海を取材する必然性があまりよく分からない一冊。密教の身体感覚というところで空海に結び付くのだろうけれど、空海自身の思想が立ち上がってくるわけではなく、行者の一傾向がクローズアップされているような印象があった。

寶壽院は典型的な祈祷寺であり、氏は信者の悩みを出来るだけ的確に察知地方寺院の水行を、当の高野山は冷ややかに眺めているようにも感じられたが、高野山の僧侶たちによる、かの庭儀結縁灌頂三昧耶戒の法会の、雲のように湧き上がる読経も、大日如来との入我我入を楽しむ僧侶たちの、ある種のトランス状態の声の集合体ではあろう。かたちこそ違え、なにがしかのこうした変性意識体験なくして密教僧の実存が保てないのは、地方の僧侶も高野山の僧侶も同様なのではないかと思う。(第9章「再び高野へ」p157-158)

生臭い。現代の宗教実践に出て来る生臭さが描き出されている。
現代では、まだ科学技術や学問の方が空しく清らかで、清らかで空しい世界を見せてくれている。平安初期の人である空海自身は、その時代の最新の科学技術と学問を摂取して、いちばん明晰な世界を見ていただろうに、と思う。

 

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高村薫
1953 -
空海
774 - 835