読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

山下一海『芭蕉と蕪村 ―俳聖に注ぐ蕪村の眼差し』(1991)

句に即して語られる芭蕉と蕪村の違い。

象潟や雨に西施がねぶの花  芭蕉
石山や志賀登らるる朧月   蕪村

芭蕉の象潟の句の中の時間と蕪村の句に見られる時間が、かなり違ったものであることは明らかであろう。芭蕉の句の時間が、作られた事情と題材によって、複雑をきわめているのに対して、蕪村の句の時間は、案外単純な自然時間をあらわしている。芭蕉の句の間の大きさにくらべて、蕪村の句の間が、大きいとはいっても芭蕉に及ばない理由の一つはそこにある。
象潟の句の中の時間は、単純な自然時間ではなく、一つは「象潟」にこめられた心理的時間であり、いま一つは「西施」の含む歴史的時間であり、さらにはその二つがからまり合って生まれた第三の文芸的時間なのである。(「蕉蕪少々」p100)

 

芭蕉の方が句柄が大きい。でも、蕪村の句も俳諧史が必要としていたと著者は説く。

芭蕉は門弟に対し、「高く心を悟りて、今なすところ俳諧に帰るべし」と教えたという。風雅の高い理想を心に置いて、実際には俗な俳諧に帰一せよというのである。ところが蕪村は、『春泥句集』の序の中で、「俳諧は俗語を用いて側を離るるを尚ぶ」といっている。すなわち芭蕉は俗に帰れといい、蕪村は俗を離れよという。これはまるで正反対のことを言っているようだが、雅にあるものに対しては俗に帰れといい、俗にあるものに対しては俗を離れて雅へ向かえといっていることであるとすれば、ともに雅と俗のあわいの世界を示唆していて、ほぼおなじかんかくにゆらいしている言葉である。
その同じ感覚が、それぞれ反対の側から説かれていることがおもしろい。(中略)芭蕉と蕪村の存在は、単に妙味ある対象というばかりではない。俳諧史自体の意思が、二人を要所に据えて、大きくバランスをとろうとしていたことのように思われる。(「芭蕉と蕪村―雅俗をめぐって」p13)

研究者による充実した論考。

内容:
芭蕉と蕪村―雅俗をめぐって
芭蕉の「やがて」
「やがて」「しばし」「しばらく」など
蕉蕪少々
蕪村の出発―蕉風がよみがえるとき
蕪村の「我」
かな書きの詩人

 

芭蕉
1644 - 1694
蕪村
1716 - 1784
山下一海
1932 - 20110