読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

野口米次郎「芭蕉」(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

芭蕉

 風は陽炎の野から吹いて来る。雲の殿堂から吹いて来る、霧で包まれる廊下から吹いて来る、霧で包まれる廊下から吹いて来る。幻の夢の谷から吹いて来る、天と海が溶け合ふ処から吹いて来る。風は悲しみの詩を追ひ廻し、涙の世界へ灰色の歌をうたふ狂人だ。
 私は耳を塞ぎ風の歌を聞かない。私の魂は私の貧しい体に住むひとりぼつちの住者だ……さぞ私の心は寂しからう。
 君は私の門前に立つ一つの勇敢な姿を見たことがあるか、それは死骸を冷たい地上に横たへる破れた芭蕉の姿だ。彼は暗黒を胸に巻き勇敢にこの冷たい世界を見つめてゐたが、彼は今死んで仕舞つてゐる。
 
(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.002