読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

野口米次郎「独り谷間に於いて」(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

独り谷間に於いて

 雪片のやうな冷気がかつとおとして降りそそぐ、沈黙を割く夜の青白い風に脅(おびやか)かされて、冷気は眠つた木の間を彷徨(さまよ)つて私が谷間に敷いた寝床に迫つて来る。
「お寝(やす)みなさい、遠く遠く離れた身内の人々よ!」………私は今夜冷気の折り重なるしたに埋まつている。
 風は吹くよ、風は吹くよ。
 弱い柔順な木の葉は口を曲げて唸(うな)る風を恐れて、地上へ逃げて来る。
 ああ、蟋蟀(こほろぎ)の笛も毀(こは)れて仕舞つた。
 家のない蝸牛(かたつむり)は私の枕を上つて、銀のやうに光る私の眼を監視している。
 夜の霧は魚のやうだ、裸かの枝に神秘の花を咲かした………だが、天上の星は一つ一つ愛の焔を消してゆく。
 私はたつた独りだ。誰が今夜私の気持ちを知ることが出来るだらうか。
 

(Seen and Unseen 1896『明界と幽界』より)

野口米次郎
1875 - 1947

 
野口米次郎の詩 再興活動 No.009