読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

野口米次郎「月夜」(From the Eastern Sea 1903『東海より』より)

月夜
     明月や池をめぐりて夜もすがら
                   芭蕉

悲しき月は山を、
われは静かに山を離れ、
漸くにして、われ、悲哀の思ひを、
声なき風にふり落とせり。
月の歩みは美しけれど冷たし、
われも銀の平和を踏み、人間の路より遠ざかる。
神秘の光、露を帯び、恰(あたか)も愛の耳語の如く、
わが髪に忍び入る………わが髪は微風に乱れて雲の如し、
われ混乱の情の甘きを感ずれど、その何たるかを知らず。
われ月に微笑み、
月われを理解せり………沈黙いやが上に深し。
水面を見れば、この世以外の夢、
青い憂愁の秋をのせて無言に歩めり。
月は大きい柔和な笑を水に投げ、
誇りを歌ふ歌を称へる如し。
思へば、海岸に言い寄る海の情熱に、
女性に打勝つ秘密あれど、
われ遠き彼方に女性の愛を見捨てたり。
徐(おもむろ)にわれ、月の海に沈むの美しさを惟(おも)ひ、
月を崇拝して再び海中を出でんことを冀(ねが)ふ。
鳥は潮の真珠を黒き羽より散らしつつ、
にはかに波の底より飛び上がれり。
われ海岸に座り、
耳を海に欹(そばだ)て、
悲劇の眼にて遙に月を眺む。
ああ、月の沈黙は海の声の如く偉大なり。
海は声を、月は沈黙を守る………
そは世界の始まる第一日より変ることなし。
われ海岸を月と共に歩み、
翌朝に及べり………わが思ふ所は、
月の思ふ所のものなり、われその何たるかを知らず。

(From the Eastern Sea 1903『東海より』より)

野口米次郎
1875 - 1947
 
野口米次郎の詩 再興活動 No.015