読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ニコラウス・クザーヌス「神を見ることについて」(1453)

無限について語るニコラウス・クザーヌスを読んでいるとつねにスピノザのことを意識するのだが、ニコラウス・クザーヌス受肉や三一性も説きつづけるのでよりアクロバティックに見える。

もしそれが、無限性から縮限されることが可能なものであるならば、それは無限なものではないことになります。というのは、たとえそれがいかなるものに対しても等しくないことがないとしても、有限なものの相対性へと縮限されることはありえないからです。より多いとかより少ないということが適合しない無限者に対して、非相対性が適合するということが、どうしてあるでしょうか。それゆえに、無限者は、想定されうるいかなるものに対しても、より大きくもより小さくもなく、また等しくないということもないのです。このためにまた、それは有限なものに対して等しいということもありません。なぜならば、それはあらゆる有限なものを無限によって〔限りなく〕超越しているのだからです。さらに、これはあらゆる有限なものを無限によって〔限りなく〕超越しているのですから、つまり自己自身によって存在しているのであり、したがって、無限者はあくまでも絶対的で縮限されえないものとして存在するのです。(第56節より 岩波文庫『神を見ることについて』八巻和彦訳 p80-81)

これは無限についてでわりと理解しやすい。

或人が「一、一、一」と言ったとすれば、彼は三回「一」と言ったことになりますが、彼は「三」と言ったのではなくて、「一」と三回言ったのです。しかし、そもそも三なしには、彼が一を三回言うことは不可能です。とはいえ、彼は「三」と言ったわけではありません。なぜならば、一を三回言うことは、同一のものを繰り返すことであって、数えることではないからです。というのは、数えることは一を他化することですが、他方、同一なものを三回繰り返すことは数なしに複数化することなのだからです。
(第74節より 岩波文庫『神を見ることについて』八巻和彦訳 p102-103)

 こちらは三一的なものについての言説でなかなか呑み込めないものとなっている。

 

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ニコラウス・クザーヌス
1401 - 1464
八巻和彦
1947 -