読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ニコラウス・クザーヌス「創造についての対話」(1447) 酒井紀幸訳

生成する宇宙のイメージをえられる著作。

神に由来する類似化の様式は、それが特殊であるときに、まさにそれゆえに理に適っていると。なぜなら次のように言われるからである。すなわち、同一者が同一化するがゆえに、特定の状態によって隠蔽されうる様式は、その類似化〔同一者を類似化すること〕において同一者を映し出す〔再現〕ことによって、特殊として見出され〔存在し〕うるのであり、いわば映し出すとき〔再現〕の特殊な様式となっているのであると。実際、同一者は、それが同一化するとき、類似化以外においては見出されえないのである。
(第182節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p529)

ミメーシスか。類似化によって切り出される特殊、個物。

万物は存在を欲する〔存在しようとする〕がゆえに、その渇望は、万物においては、渇望のかの源泉〔真の原因者〕それ自体に由来するものとしてあるのだ。というのもその源泉のうちにあっては、存在と渇望が同一者として一致しているのだから。それゆえ万物の渇望は、その存在に応じているのである。すなわち理性的なものは理性的に、感性的なものは感性的に、感性的なものは感性的に、またほかのものも同様に、存在を欲し、しかも最善にそうであるというようにである。
(第170節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p522)

「万物の渇望は、その存在に応じている」という言葉が印象に残る。

しかしながら非=一者は他性において以外には見出されえないのである。なぜなら絶対的同一者と一致する一性は、多重化不可能だからであり、さらに同一者がまたそのような一性でもあることからあ、非=一者が絶対的で、多重化不可能な同一性にはいたりえないということになるからである。それゆえ存在者でもあり、一者でもあり、そして無限者でもあるかの絶対的同一者自身が、自己自身に向かって非=同一者を呼ぶときに初めて、かの同一者を多様に分有する多なるものにおいて類似化が生じるのだ。それゆえ多性、他性、多様性、相異性などそれに類するものが生ずるのは、同一者が同一化するということに由来するのである。そこからまた、かの同一者を多様性において分有することである秩序も、また同一者を多様に映し出す調和も生じてくる。万物はいかに多様であるにせよ、すべて同一者と響き合い、それを呼び合っており、そしてこの響き合う声が類似化なのである。
(第150節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p508)

美しいイメージとか言ったら、文芸的にとらえすぎているとどこからかお叱りがくるだろうか。

 

 

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上智大学中世思想研究所 編
小山宙丸 編訳・監修
中世思想原典集成 17
『中世末期の神秘思想』より

ニコラウス・クザーヌス
1401 - 1464
酒井紀幸
1954 -