読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ニコラウス・クザーヌス「知恵に関する無学者の対話」(1450) 小山宙丸訳

一文が比較的短く読みやすい対話篇。

単純なものは合成されたものよりも本性上より先なるものであるのと同様に、合成されたものは本性上より後なるものです。それゆえ、合成されたものは単純なものを計ることはできません。むしろその反対です。
(第6節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p545)

求めるものへの予感が具わっているよくできた人間の身体。

栄養になるものがなければ、私たちは生きることができないのですから、私たちは栄養を求めるのです。しかし、私たちは、感覚的に生きるために、栄養物に対するある種の味の予感を持っています。それゆえに、子供は生まれつき乳に対するある種の味の予感を具えているのです。そのために、お腹がすいたときには乳のほうへと向かっていくのです。
(第15節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p551)

質問の前提を意識して問うことの大切さ。

神に関するいかなる質問も問われたことを前提としています。神に関するあらゆる質問において、質問が前提としていることこそが答えとなるべきことなのです。なぜなら、神は言い表されえないものであるにもかかわらず、用語のあらゆる意味表示において意味されるのもだからです。
(第29節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p561)

 

無限を考えるときは気をつけなければならないなと思う箇所。『知ある無知』(『学識ある無知について』)のなかでも同じことが論じられている。カント―ルの無限に関する議論を何点か読んで、無限を計算項目の項としてはいけないというようなことを知った。だから∞×πとかやってはいけないし、正しく考えられないと思っているのだが、以下のクザーヌスの議論ではそこを神学的ロジックで突き抜けているのだと思う。詐術のようでもあり、きちんとした論理であるようにも思えて驚異的だ。

「より大きい」と「より小さい」を受け入れる円は単純に最大あるいは無限ではありえないけれども、私たちは円が無限であることを思い浮かべることができます。その場合にな、その円の直径は無限な直線ではないですか。(中略)すると円周も無限なのですから、円周は直径であることになるでしょう。なぜなら、二つの無限なものが存在することはできないからです。おのおののものはほかのものを付加することによってより大きくなりうるのですから。そしてその円周自体も曲線ではありえません。なぜなら、その円周は直径よりもいっそう大きくもいっそう小さくもありえないからです。
(第41節より 平凡社『中世末期の神秘思想』p569)

 

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上智大学中世思想研究所 編
小山宙丸 編訳・監修
中世思想原典集成 17
『中世末期の神秘思想』より

ニコラウス・クザーヌス
1401 - 1464
小山宙丸
1927 - 2006