読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

カール・ヤスパース『ニコラウス・クザーヌス』(原書1964, 訳書1970)

ヤスパースは思弁哲学者としてのニコラウス・クザーヌスを称揚し、キリスト者や教会運営者としてのニコラウス・クザーヌスを批判する。キリストへの信仰の有無で救いが分かたれるという発想が押し出されて来ると、やはり非キリスト者としては賛同しかねるのである。

われわれは彼のうちに、一切を彼の教会、彼の信仰、彼の世界秩序像のなかへ一体化しようとする権力意志を感ずる。彼を導いているのは、根源を異にするものをも現実の平和へと推進するところの交信意志ではなくして教会信仰の教理的なものである。(第五部「政治的行動と生活実践」p307)

枢機卿としてのニコウラウス・クザーヌスに対して、実存主義哲学のヤスパースは「事物の根底からの救い」という思想をクザーヌスから抽出し読者に掲げる。

われわれは、いまだかつて知られなかったところの、したがっていわば計算したり無理矢理に導きよせたりあるいは祈りによってかち得たりすることの決してできない、事物の根底からの救いに向かって指し向けられているのである。われわれが事物の根底を信頼するのは、われわれ自身を信頼するときである。自由であるために、またその自由にふさわしくあるために、われわれにできることを誠実にそして愛しつつ行うに応じて、この救いがわれわれのものとならんことを、これをわれわれは期待するのである。(第七部「クザーヌス批判」p391)

獲得されるべき自由、そしてその導き手としての形而上学へ参与した人物として思弁哲学者としてのニコラウス・クザーヌスがいる。そのことが本書の最後で宣言されて、読者にとっては、なぜ二十世紀の哲学者ヤスパースが中世の枢機卿の振る舞いを批判しながらもわざわざ彼の思想について一冊の書物を書いたのかが納得されて終る。そのような構成になっていた。
思弁哲学者として評価されるクザーヌスについては以下の箇所にその特徴が表れていると思う。

世界は、地上的な認識においては完結不可能である。クザーヌスはこの認識内でのいかなる固定点をも、いかなる絶対性をも破棄する。有限的に把捉できる世界像を欲するものに対しては、クザーヌスはむしろすべての認識可能な世界存在物の相対的性格を示す。ただ無知の知だけに奉仕された理性(intellectus)を通して、われわれは「世界およびその運動と形態は、到達されえないであろうことを」直視するのである。(第二部「存在全体」第二章「世界」p193)

本書を読み終えて、新実存主義マルクス・ガブリエルとか急いで読まないでもいいかもしれないという気分になった。じっくり振り返るべき過去の業績と研究がまだまだある。

 

メモ【付箋箇所】
28, 34, 51, 55, 62, 96, 104, 109,125, 149, 166, 182,203, 213, 247, 276, 292, 307, 368, 371,381, 391

カール・ヤスパース
1883 - 1969
ニコラウス・クザーヌス
1401 -1464
薗田担
1936 - 2016