読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

シャンタル・ムフ『左派ポピュリズムのために』(原書2018, 訳書2019)

エルネスト・ラクラウとの共著『民主主義の革命』もそうだったが、現実政治への提言の書として受け止めるよりも、パワーバランスに関する理論書として読んだ方が面白い。

フロイトが示しているのは、人格が自我の透明性を中心に組織されているのではなく、行為主体(エージェント)の意識や合理性の外側にある多くの水準で構造化されているということなのだ。そのため、彼は、合理主義的な哲学にとっては重要な教義のひとつを放棄するよう強いる。この教義こそ、合理的で透明な実体という主体カテゴリーにほかならず、これが行為の全体性に同質的な意味を賦与している。さらに、フロイトは「個人」というものが単に指示的なアイデンティティであって、それは局地化された主体位置のあいだの節合から生じたものに過ぎないことを受け入れるよう求めている。本質的なアイデンティティは存在せず、ただ同一化の形式のみがあるとする精神分析の主張が、反―本質主義的なアプローチの中心にある。主体の歴史とは同一化の歴史なのであり、同一化の背後に救出されるべき同一性(アイデンティティ)が隠れているわけではない。(4「人民の構築」p98)

上のような言説の何に魅かれるかというと、闘争においては負けてはいけないという大前提はありつつも、複数性や局地性が視野に入っていて、勝ってはいないけれども間違ってもいないというように一定部分が認められ、たとえ負けてもすくい上げてくれる可能性が出てくるということ、また状況によってはヘゲモニーが変わるという運動への期待が生まれるところである。

民主的な価値観への忠誠とは、同一化の問題である。民主主義への忠誠は、合理的な論証によってではなく、民主的な形式の人格をつくる言語ゲームの組み合わせ(アンサンブル)を通じて創出されるのだ。ヴィトゲンシュタインは、宗教的な信仰を「ある一つの座標系を情熱的に受け入れる」ことになぞらえ、さまざまな様態の忠誠がもつ情動的次元を認めている。スピノザフロイト、そしてヴィトゲンシュタインをひとつにまとめると、言説的実践への書き込みが触発(アフェクション)をもたらすのであり、スピノザにとってこれは、欲望を掻き立てて特定の行動に急かす感情を生み出すものなのである。こうして、同一化の集合的な形式を構成するにあたり、感情と欲望が決定的な役割を果たすことが分かるであろう。(4「人民の構築」p102)

 

さて、個人の問題としては、上に語られた力学を観察しつつ体験するには、小さなことではあるが、特定分野の本を一定量読んでみることで実現できる。去年の私の場合で言うと橋本治の『ひらがな日本美術史』全7巻の教えは大きく、近づきもしなかった江戸の美術を熱心に見るようになっている。しかし、現実の政治で実践しようとするとどうすればいいのか、どういう運動が出てくれば関心が湧いて来るのか、途端にわからなくなる。そして、腰が重くなる。

自由主義ヘゲモニーに対抗するヘゲモニー闘争において決定的となるのは、「公的なもの」をめぐる闘いである。すなわち、市民たちが声をもち、権利を行使する領域として「公的なもの」を意味づけなおすことで、個人主義的で、「消費者」としての市民という現在支配的となっている概念―これがポスト・デモクラシー的な見方の根幹をなしている―を置き換えなければならない。(4「人民の構築」p90)

 

やはり、ピンとこない。ベーシックインカムがまず思い浮かんでくるが、それって商品経済ありきの発想で、「公的なもの」を意味づけなおすということには遠い気がする。消費者の位置の気楽さに慣れすぎてしまっていて、それ以外の行動を強いられる可能性があると途端に嫌気がさす傾向が自分の中にあるのは知っている。その傾向を超えて情動を刺激する発想はこれからでてくるのだろうか? 出会えるだろうか? 著者シャンタル・ムフは、それは「芸術的かつ文化的な実践」であるといっているので、そう簡単には現れないだろうし、現れたところで「芸術的かつ文化的」なものなので、人によっては容易に理解できず、もしかしたら認めることもできないものであるかもしれない。

www.akashi.co.jp

目次:

序論
1 ポピュリスト・モーメント
2 サッチャリズムの教訓
3 民主主義を根源化すること
4 人民の構築
結論

シャンタル・ムフ
1943 -

 

『民主主義の革命』についてはこちらもどうぞ。

uho360.hatenablog.com