読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

カール・ヤスパース『佛陀と龍樹』(原書1957, 訳書1960) 理想社 ヤスパース選集5

アジアの救済宗教の言葉を、ヨーロッパの形而上学とは異なり、自分の立場とは異なると認めたうえで、《へだたり》の認識を保ちつつ、なお「力のかぎりこれを理解する」と言葉を紡ぐヤスパース。その存在は、大きい。

【佛陀】

信仰者にとって、生の倦怠は生存への消極的な固執のしるしである。世間に関わらないならば、世の愛憎・世間苦ならびに生の倦怠に超然としているはずである。
仏陀は、人間の積極的な可能性を、捉えず・執らわれず・逆らわずして救済を得るというただひとつのことに限っているから、世の中におけるなんらかの建設・世界形成は、もはやふかい意味をもちえなくなる。現象へ立ち入ることによってゆたかになる歴史的に充実した生も、限りなく前進する科学的知識欲も、一回的な愛の歴史性も、歴史的(ゲシヒトリヒカイト)な埋没にたいする責めも、もはや意味をもたなくなる。世界はあるがままに放置される。仏陀はこのただ中をゆき、しかも、一切のもののための改革を考えることをしない。かれの教えは、世の中から脱することであり、世の中を変えることではない。(「佛陀」p51)

仏陀と仏教においては、われわれとしては湧出させることのなかったひとつの泉が、渾々と湧き出ていることを、そしてそこに理解の限界があるということを、決して忘れてはならないのである。われわれは並々ならぬ厳然たる《へだたり》のあることを認め、安価ですみやかな接近はこばまねばならぬ。われわれが仏陀の説いた真理に根本から関与するようになるには、われわれの現在のあり方がまったく変ることが必要であろう。この相違は、理論上の立場の相違ではなく、生のあり方そのもの、思惟方法そのものの相違なのである。
しかし、《へだたり》のゆえに、われわれはおなじく人間であるという考えをもうしなうにはおよばない。いずこにおいても、あいかわらぬ人間存在の問題が問われるのである。ここに、仏陀によって一つの偉大なる解決が見出され、実現されている。これを知り、力のかぎりこれを理解することが、われわれに負わされた課題である。(「佛陀」p54)

【龍樹】

生存の一切の現実が空であることは、世間的な転変のうちへ頽落することによって〔そこから〕禍と苦が生起しきたり、そして、そこへ還帰がなされるところのものが、確かに存在することを示す。すべての思惟された存在は頽落する。真の思惟の意義は、思惟の転変から非思惟(ニヒト・デンケン)へとたちもどるところにある。思惟の展開によって生じたことは、より高次の思惟により思惟の解体を通じて解消される。このことは結局、一切の記号存在(ツァイヒェン・ザイン)、したがって一切の言葉の不真実なることを洞見するさいに生起する。《しるし》としての言葉は単にあたえられた存在であること、それゆえ、真正の意味を欠いていることが洞見されると、言葉自体が消滅する。これがすなわち解脱である。苦を忍受しつつ意識の世間的な転変のうちへ空をつくり出していくことによって、根源へと導きもどされるのである。(「龍樹」p93-94)

このような仏教的な思惟方法は、西洋でいう理性(Vernunft)のしめる位置に類似しているようにおもわれる。理性もまた空とおなじく、無限に開かれてある。いずれも聴従し、さからわない。しかし相違はある。仏教の賢者は、もはや水に湿ることのない鴨のように、世間をつらぬいて進みゆく。かれは世間を放棄することによって世間を克服したのである。かれは思惟しえぬもの、出世間的なるもののうちに自己を成就する。これにたいして、西洋人のいう理性は、絶対的なもののうちにではなく、かれが自己の実存に引き受けるところの世界の歴史性そのもののうちに、自己の実現を見出す。理性的な西洋人は、歴史的な実現においてのみ、また歴史的な実現と一体になることによってのみ、その根拠を見出し、この実現を、かの無限の広さと遠さをもつ場において捉え、みずからがかなたの超越者へと関係づけられていること、そしてまた、そこからの自由を得ていることを知っている。(「龍樹」p100)

西洋側からの理解を心にとめて、アジアの、日本の文化の一部を成している仏教の言葉、仏教由来の言葉を改めて意識し、継続的に読んでいこうと思った。

メモ【付箋箇所】
16, 33, 51, 54, 69, 75, 82, 83, 93, 98, 100

カール・ヤスパース
1883 - 1969
佛陀(ゴータマ・シッダッタ
紀元前五世紀前後
龍樹
西暦150~250年頃
峰島旭雄
1927 - 2013