読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【謡曲を読む】新潮日本古典集成 伊藤正義校注『謡曲集 中』その1

題材が中国のもの(「項羽」「皇帝」)は内容も言葉も動きも野太くなるのが面白い。

 

【清経】
入水した平清経の霊とその妻の語らいの劇

さても頼み奉り候ふ清経は 過ぎにし筑紫の戦に打ち負け給ひ 都へはとても帰らぬみちしばの 雑兵の手に掛からんよりはと思しめしけるか 豊前の国柳が浦の沖にして 更け行く月の夜船より 身を投げ空しくなり給ひて候 また船中を見奉れば おん形見の品々に鬢の髪を残し置かれて候ふほどに かひなきおん形見を持ち只今都へ上り候

 

鞍馬天狗
鞍馬の大天狗と牛若丸との交歓の劇

あら痛はしやおん身を知れば 所もくらまの木陰の月 見る人もなき山里の桜花 よその散りなん後にこそ 咲かば咲くべきに あら痛はしのおん事や 

 

【呉服】
呉服の女神と廷臣の語りの劇。機織り讃歌。

松の風 または磯打つ波の音 頻りに隙(ヒマ)なき機物(ハタモノ)の 取るや呉服(クレハ)の 手繰(テグ)りの糸 わが取るはあやは 踏み木の足音 きりはたりちやう きりはたりちやうちやうと 悪魔も恐るる 声なれや

 

【源氏供養】
石山観音の再誕であるところの紫式部の霊と安居院法院の語らいの劇

ここに数ならぬ紫式部 頼みをかけて石山寺 悲願を頼み籠り居て この物語を筆に任す されどもつひに供養をせざりし科により 妄執の雲も晴れ難し 今逢ひがたき縁に向つて 心中(シンジウ)の所願を起こし ひとつの巻物に写し 無明の眠りを覚ます 南無や光源氏の幽霊成等正覚

 

項羽
項羽(とその后の虞美人)の霊と烏江野の草刈の男との語りの劇

これは項羽の后虞氏と申せし人の 身を投げて空しくなり給ひしを 取り上げ土中に築(ツ)き籠め候へば その塚より生(オ)ひ出でたる草なればとて美人草とは申し候

また望雲騅といふ馬は 一日に千里を駈ける名馬なれども 主(ヌシ)の運命尽きぬれば 膝を折つて一足も行かず その時項羽はちつとも騒がず 馬よりしずしず下り立つて いかに呂馬童(リョバドウ) わが首取つて高祖に捧げ 名を揚げよやと呼ばはれども 呂馬童は 恐れて近付かず 不覚なる者の心かな これ見よ後の世に 語り伝へよと言いあへず 剣を抜いてあへなくも われとわが首を掻き落し 呂馬童に与へそのまま この原の露と消えにけり

 

【皇帝】
玄宗皇帝と病鬼に就かれた楊貴妃と鐘馗の霊の恩返しの劇

これは伯父(ハクブ)のおん時に 鐘馗(ショオキ)と言ひし者なりしが 及第叶わぬことを歎き 玉階(ギョッカイ)にて頭(コオベ)を打ち砕き 身を徒らになしし者の 亡心これまで参りたり (中略) 贈官のみか緑袍(リョクホオ)を 死骸に葬る旧恩に 今かく君の寵愛し給う 貴妃の病を平らげて 奇特(キドク)を見せしめ申すべし

 

西行桜
西行と老桜の精の交歓の劇

およそ洛陽の花盛り いづくもと言ひながら 西行が庵室(アンジツ)の花 花も一木(ヒトキ)われも一人と見るものを 花ゆゑ在処を知られんこといかがなれども これまではるばる来りたる心ざしを 見せではいかで帰すべき あの柴垣の戸を開き内へ入れ候へ

 

www.shinchosha.co.jp

伊藤正義
1930 -2009