読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【謡曲を読む】新潮日本古典集成 伊藤正義校注『謡曲集 下』その2

狂い踊るのはこころの辛さに辛うじて対峙するため。能には、男亡霊ばかりで男物狂いが少ないところは、男のほうが現世での救いが少ないことのあらわれかもしれない、と、現代の読み手として勝手な思いを抱く。


【花筐】
継体天皇の越前隠棲時代に愛した照日の前が即位にあたって別れを迎え、恋しさのあまり物狂いとなるが、後に再会し都へ還幸する。

同じく留め置き給ひし おん玉章(タマズサ)の恨みを忘れ 狂気を止めよ元のごとく 召し使わんとの宣旨なり げにありがたやおん恵み 直なるみよに返るしるしも 思へば保ち筐(カタミ)の徳 かれこれ共に時に遭う 花の筐の名を留めて 悲しき人の手慣れし物を 形見と名付け初めしこと この時よりぞ 始まりける

 

【班女】
追放され物狂いとなった花子班女が契りを結んだ吉田の少将と再会する劇

月重山(チョオザン)に隠れぬれば 扇を挙げてこれを喩へ 花琴上(キンショオ)に散りぬれば 雪をあつめて春を惜しむ 夕(イウベ)の嵐朝(アシタ)の雲 いづれの思ひのつまならぬ 淋しき夜半の鐘の音 鶏籠(ケイロオ)の山に響きつつ 明けなんとして別かれを催し せめて閨(ネヤ)洩る月だにも 暫し枕に残らずして また独り寝になりぬるぞや

 

【檜垣】
妄執にとらわれた後撰集の檜垣の嫗の霊が岩戸山の住僧に救いを求める劇

それ籠鳥(ロオチョオ)は雲を恋ひ 帰雁は友を偲ぶ 人間もまたこれ同じ 貧家には親知少なく 賤しきには故人疎し 老悴衰へ形もなく 露命窮まつて霜葉(ソオヨオ)に似たり 流るる水のあはれ世の その理を汲みて知る

 

【氷室】
氷室明神が亀山院の臣下に氷室の来歴を語り、氷を愛でる劇

主の翁申すやうは それ仙家には紫雪紅雪(シセツコオセツ)とて薬の雪あり われこの薬のゆゑに寿命長遠に候とて すなわち氷を砕き 供御(グゴ)に供へ申し候 それより氷(ヒ)の物供御(モノグゴ)始まり候

  

【百万】
子と別れてしまい物狂いとなり踊り念仏を躍る女曲舞百万が子に再会する劇

げに痛はしきおんことかな まこと信心私なくは かほど群集(クンジュ)のその中に などかは廻り逢はざらん 嬉しき人の言葉かな それにつきても身を砕き 法楽の舞を舞ふべきなり 囃して賜べや人びとよ 忝なくもこのお仏も 羅睺為長子(ラゴイチョオシ)と説き給へば わが子にあうむの袖なれや 親子鸚鵡の袖なれや 百万が舞を見給へ 百(モモ)や万(ヨロズ)の舞の袖 わが子の行方祈るなり

 

【富士太鼓】
住吉の楽人富士の不慮の死を萩原の院の臣下から伝えられた富士の妻が、とめる娘を説き伏せ、狂気の中、太鼓を夫の敵と思い定め乱打する劇。

ただ恨めしきは太鼓なり 夫(ツマ)よ敵よいざうたう げに理なり父御前(ゴゼ)に 別れしことも太鼓ゆゑ さあらば親の敵ぞかしうちて恨みを晴らすべし わらはがためには夫の敵 いざや狙はんもろともに 男の姿かりぎぬに 物の具なれやとりかぶと 恨みの敵うちをさめ 鼓を苔に 埋づまんとて 

  

【藤戸】
佐々木三郎盛綱が藤戸先陣の折、渡りの浅瀬の場所を教えてくれた男を、口封じのために殺害。その男の母の嘆きと、男の霊の恨みの劇。

川瀬のやうなる所の候 月頭(ツキガシラ)には東にあり 月の末には西にあると申す すなわち八幡大菩薩のおん告げと思ひ 家の子若党にも深く隠し かの男とただ二人(ニニン)夜に紛れ忍び出で この海の浅みを見置きて帰りしが 盛綱心に思ふやう いやいや下郎は筋なき者にて またもや人に語らんと思ひ 不便(フビン)には存ぜしかども 取つて引き寄せ二刀(フタカタナ)刺し そのまま海に沈めて帰りしが さては汝が子にてありけるよな

  

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伊藤正義
1930 -2009