読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

【謡曲を読む】新潮日本古典集成 伊藤正義校注『謡曲集 下』その3

能は舞、謡、衣装、面といった複数の要素からなる総合芸術だけれど、謡曲を読むだけでも十分に詩劇として楽しむことができる。「二人静」とか陶然となるような言葉の芸術であると思う。サ行の擦過音が静かに渡りゆく感覚に身をゆだねられる。また掛詞の言葉の技巧などに眼をむけても嫌みが少なく各曲で楽しめる。一曲当たり10分~15分。

二人静
勝手明神の神前供御の若菜摘みの女に静御前の霊がついて、静御前の幻とともに舞を舞う劇。

しづやしづ しづやしづ しづの苧環繰り返し 昔を今に なすよしもがな 思ひ返せば いにしへも 思ひ返せば いにしへも 恋しくもなし 憂きことの 今もうらみの ころもがは 身こそは沈め 名をば沈めぬ

 

【舟橋】
万葉集に詠まれた佐野の舟橋のいわれを語る男の亡霊と女亡霊が山伏の加持祈祷によって成仏する劇。

昔この所に住みける者 忍び妻にあくがれ 所は川を隔てれば この舟橋を道として夜な夜な通ひけるに 二親このことを深く厭ひ 橋の板を取り放す それをば夢にも知らずして かけて頼みし橋の上より かつぱと落ちて空しくなる 妄執といひ因果といひ そのまま三途に沈み果てて 紅蓮大紅蓮の氷に閉ぢられて 浮かむ世もなき苦しみの 海こそあらめ川橋や 盤石に押され苦を受くる

 

舟弁慶
義経都落ちの時の静御前との別れと船を襲う平知盛の怨霊と義経・弁慶の応戦の劇。

あら不思議や海上を見れば 西国にて滅びし平家の一門 おのおの浮かみ出でたるぞや かかる 時節を窺ひて 恨みをなすも理りなり 


【放生川】
石清水八幡宮の武内の神が放生会にあたって祝福の舞語りをする劇。

鱗類(ウロクズ)の生けるを放す川波に 月も動くや秋の水 夕山松の風までも 神の恵みの声やらん

  

【仏原】
平清盛寵愛の仏御前仏道帰入の物語りと舞。

成仏の縁あるその人の 名も頼もしや一仏成道 観見法界 草木国土 悉皆成仏と聞くときは 仏の原の草木まで 仏の原の草木まで 皆成仏は疑はず ありがたや折からの 野もせにすだく 虫の音までも 声仏事をやなしぬらん 山風も夜嵐も 声澄みわたるこの原の 草木も心あるやらん 草木も心あるやらん

 

 【松風】
松風と村雨二人の海士の霊が在原行平の死を悼み、松風は思い募るあまりに松に行平の影を見て恋の舞を踊る。

月にもなるる須磨の海士(アマ)の 塩焼衣色変へて 縑(カトリ)の衣(キヌ)の空薫(ソラダ)きなり かくて三年(ミトセ)も過ぎ行けば 行平都に上り給ひ 幾程なくて世を早(ハヤ)う 去り給ひぬと聞きしより あら恋しさやさるにても またいつの世の音信(オトズレ)を まつかぜも村雨も 袖のみ濡れてよしなやな 身にも及ばぬ恋をさへ すまのあまりに罪深し 跡弔らひてたび給へ

 

【松虫】
松虫の音にまつわる友への思いを男の亡霊が語り舞う劇。

ある時この阿倍野の原を通り申され候へば 虫の音を聞き 一人草露(ソオロ)に分け入り 虫の音を聞き申され また先に鳴く声聞きては 先へ行き先へ行き聞き申され 心尽き空しくなり申され候 一人の友やや久しく待ち申され候へども 帰り申されず候ふを不思議に存じ申され これも草露を分け尋ね申され候へば 虫の音聞き入り空しうなりて候 そのまま死なば一所と契りたるに これは夢か現か言語道断のことやと申され この松原の池へ身を投げ空しうなり申され候 その時一首詠み申され候 亡き人のこれを形見の野辺に来て 松虫の音に袖ぞ濡れけると かやうに詠み申されて候

 

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伊藤正義
1930 -2009