読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

アラン『スピノザに倣いて』(原書1901, 1949 訳書1994)

アラン35歳の時の処女作。後年の縦横無尽なエッセイを予感させるものの、まだ生硬さがのこるはじまりの書。スピノザの心身合一説を敷衍した箇所はアランの本質を成すしなやかさがすでに垣間見えている。

われわれがもっている外的物体の観念は、外的物体の本性というよりもむしろ、われわれ自身の身体の構造を言い表している。たとえば、或る熱病者がぶどう酒の苦さを知覚するとき、この知覚が彼に教えているのは、飲んでいるぶどう酒の本質というよりもむしろ、彼自身の状態である。
したがってわれわれの魂は、現前しない物体を、現前するかのごとく観想することができるだろう。そのためには、この物体の本性を内包するわれわれの身体の変様は、もし物体がなくても、生じるために十分であろう。それは可能である。なぜなら、われわれの身体のすべての変様は運動の変化であり、すべての運動の変化は物体の弱い部分に痕跡を残すからである。そしてこの変化は、物体の運動そのものの結果、すなわち物体が生きている結果、生まれるのである。したがって、ピエールの魂そのものであるピエールの観念と、ポールのなかにあるピエールの観念とのあいだにはきわめて大きな相違がある。なぜなら、ピエールの魂なる観念は、ピエールの身体と同時に存在しなくなるだろう。それにたいし、ポールのなかにあるピエールの観念は、ピエールの本性よりも以上にポールの身体構造を説明しているので、たとえピエールがもはや存在しなくても、ポールがまだ存在するならば、存続するであろう。
現前しない対象を現前するものとして表象することは想像である。それ自身において考えられた、この類の想像は、いかなる誤謬をも含んでいないことを指摘するのは的を射たものである。誤謬はただ、われわれが想像している物体がないことを知らないことから出てくるのである。実際、もしそれがないことを知っているならば、それが現前しなくても、それを表象することは、われわれの弱さというよりもむしろ、われわれの力のしるしであろう。(第二章「神と魂について」p58-59)

直截の引用をほとんどすることなくアランによって変奏されるスピノザの思想は、しなやかに上品にコーティングされている。

 

目次:
スピノザの生涯とその著作
スピノザの哲学
第一章 反省的方法
第二章 神と魂について
第三章 感情と情念について
第四章 人間の隷属について
第五章 理性について
第六章 自由と至福について

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アラン(エミール=オーギュスト・シャルティエ)
1868 - 1951
スピノザ
1632 - 1677
神谷幹夫
1948 -