読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジル・ドゥルーズ『スピノザ 実践の哲学』(原書1981,訳書1994)に学ぶ「心身並行論」

ドゥルーズスピノザの心身並行論に関して、身体の導入による意識の評価切り下げという視点を提示し、意識にならない無意識的な領域の存在を浮上させる。

この心身並行論の実践的な意義は、意識によって情念〔心の受動〕を制しようとする<道徳的倫理観(モラル)>がこれまでその根拠としてきた原理を、それがくつがえしてしまうところに現れる。(中略)意識はもともと錯覚を起こしやすくできている。その本性上、意識は結果は手にするが、原因は知らずにいるからだ。(「道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて」p29-30) 

 意識は思惟や精神よりも守備範囲が狭い。意識がそのままで手にできる結果だけにとどまらず、知性によって結果をもたらす原因や生成の部分に触れ、その領域を自覚すること。それによって、世界に自動的に働いている秩序、無限の実体に発する秩序に連なることを認識するという過程に眼を向ける。そして意識という混乱の層自体はそのすがたのまま認識しつつ、その層がもつ軛からは抜けでるべきである。そういったところがスピノザの思想の方向性であるようだ。生成の部分にあるのは無限の実体に発する自動機械的に働く秩序であり、それは個物に偏在している。そして、そのことが心身並行論の基盤をなしている。

精神と同様、個々の身体にはその身体の個的・特異的な本質というものがある。そうした身体の本質は、たしかに、その精神の本質をなす観念(私たち自身のありようとしての観念)によって表現されるものとしてしか現れてこない。(第4章 『エチカ』主要概念集「精神と身体(心身並行論)」p129) 

 

すべての観念は、それらが自身の原因を表現し、かつ私たちの理解する力能によっておのずから開展〔=説明〕されるかぎりにおいて、神の観念を出発点として互いに連結しあうのである。精神が「一種の精神的自動機械」であるといわれるのもそのためだ。(第4章 『エチカ』主要概念集「方法」p173)

 

意識の層には上がらない自動的な働きを本来とする精神、あるいは諸観念の秩序が、すべての個物には存在する。そのような説ならば、精神偏在論とも捉えられる心身並行論も、心をあまりざわつかせることなく受け入れていることが出来る。

  

※引用は単行本のページ数なので、平凡社ライブラリー版とは違いがあるかも知れません。

 

目次:
第1章 スピノザの生涯
第2章 道徳(モラル)と生態の倫理(エチカ)のちがいについて
第3章 悪についての手紙(ブレイエンベルフとの往復書管)
第4章 『エチカ』主要概念集
第5章 スピノザの思想的発展(『知性改善論』の未完成について)
第6章 スピノザと私たち

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