読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

湯川秀樹・梅棹忠夫『人間にとって科学とはなにか』

京風アレンジのきいた味わい深い科学系文化雑談。ふたりともにペシミスティック、且つ老荘思想を愛好する科学者で、その居心地の悪そうなポジションからの発言が、五〇年後の今でも強い浸透力を保っている。

普通の性能の自動車をつくることにくらべると、安全な自動車なり道路なり全部を含めて、それらの全体を安全なシステムにするということは、ずっとむつかしい。自動車のスピードを上げることより安全にすることの方がむつかしい。
そこがまた科学の困るところでもある。何かにともなう弊害がわかったときに、それを最小限度にする、ゼロに近くするということは、一般に手のかかることであり、金のかかることでもある。これは科学がわれわれの身近な世界へはねかえってきたときには、多かれ少なかれ出てくる話やけれども、これまた難儀なことです。(湯川 「人間にとって科学とはなにか」Ⅳ 科学とヒューマニズム p125)

私は人間は先の先まで全部見通して解決するだけの能力は、もっていないと思う。ここ十年もたせる、二十年もたせる、三十年もたせるというような、そういう方策で満足するほかない。ここ二、三十年は何とかいけるやろう。その先に、また新しい公害が出るかもしれんけれども、それは、もう少し先になってから考えるという生き方でやるほかないでしょう。一ぺんにズバッと未来永久にわたる解決などできそうもない。特に動物や植物も無機物も人間も含めた自然界の循環のバランスなんちゅう話になると、どんなに考えても読みきれんように、私には思える。(中略)文化の発達していない昔の人間は、あんまり自然を乱さずに来たんですね。しかし、もともと文化ちゅうものは、何らかの意味でそういう自然の状態を乱している。文化ちゅうものは、必ずそういう面をもっている。ある程度以上に進むと、乱し方が急にひどくなる。乱した結果、いろいろ変なことが起こる。(中略)もともとDDTがなかったら、われわれみんな困ったに違いない。それはしかし、自然のバランスを大いに乱しておったわけですね。乱してくれたので、人間は助かっとったわけや。いつも私が引き合いに出すのは、梅棹さんもさかんにいうておられる、老子とか荘子とかいう人ですが、彼等は自然に帰れ、と大昔にいうた。もっと後になると、西洋人でも日本人でも、同じようなことをいう人が、何人も出てくる。自然に帰れ、というたって、一体どこまで帰れるのか。おもしろい思想で、老荘は大好きやけれども、できへんですよ。(湯川 「科学と文化」 p261-262)

「難儀なことです」「できへんですよ」と日本のトップの知性でさえ言っていたことを心に留め置きながら、乱れに千切られないよう、なるべくいい道を選べるよう、足元くらいは確認できるようにしておきたい。


目次:
人間にとって科学とはなにか(1967)
 現代科学の性格と状況
 科学における認識と方法
 科学と価値体系
 科学とヒューマニズム
 科学の未来
増補
 現代を生きること―古都に住みついて(1962)
 科学の世界と非科学の世界(1965)
 科学と文化(1970)

人間にとって科学とはなにか|全集・その他|中央公論新社


湯川秀樹
1907 - 1981
梅棹忠夫
1920 - 2010