読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

マルセル・モース『国民論』(1953-54)

死後出版されたモースの遺稿。「国民はみずからの言語を信仰している」という洞察が身に沁みてくる。

けれども、風変わりで、古拙で、あるいは純化された言語に付与されたこのような優越性は、エリートの畏敬の対象でしかなかった。脇に置かれた人民は、そんなことには無関心であった。ギリシアでは教育が行き渡っていたので例外であったが、それを別とすれば、人民は文明の照り返しにしか参加しておらず、何を話していたかといえば、自分たちの地方語であり、非常に豊かな生活技術に関わる語彙であり、非常に単純な自己像であったからである。言葉が生きていたのはそうした場においてであった。けれども、ことばはそこで自然の生を生きていた。輪郭の明晰さ(コントゥール)も表現の迂遠さ(デトゥール)もなしに。洗練もなしに。力と自由をもって。政治的野心ももたず。みずからが優越しているなどという信仰をもつこともなしに、生きていたのである。ところが、教養言語であったものが、国民の形成とともに人民の言語となった。そのとき、その言語を対象とする様々な感情が人民の全体にまで拡大したのだった。すぐれた表現がある、卓越したことば遣いがある、言語をよく話す人とそうでない人との区別がある、こうしたことが人民の信仰となったのである。(p154)

教養言語を学ぶよう教育され、嗜好品としても書き言葉を選択するようになってしまった私は、信仰の強化を願う一般信徒のような存在だ。私が見聞きする言葉や象徴記号そのものが私の世界だ。私自身がもつ不定で不安定な自己像は、咀嚼しきれない言葉や記号を取り込んでいるためだろう。咀嚼し消化するためにも、つぎつぎにあたらしい言葉や記号を取り込んでしまっていることは、もうどうにも仕方がないことだ。目をさませば色づけされた情報にふれている。夢のなかでも本で読み映像とともに聞いた近代以降の日本語で感じて考えている。棄教ということに関しては想像の力が及ばない。

 

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マルセル・モース
1872 - 1950
森山工
1961 -