読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ロナルド・H・コース『企業・市場・法』(原書1988、訳書1992, 2020)

自然言語で書かれた人文系の研究者の論文は、門外漢の一般読者であっても、読もうと思えば読めてしまう。そして、専門家の間で高い評価を受けていることについても、それって普通じゃないのかな、などと思ってしまう。取引を成立させるには様々な費用があるため、経済学の研究の際には、それを見逃さないようにしましょうって、ノーベル賞に値する論考なのだろうか? 普通でしょ。ただ、つまらないというわけではない。厳密に語っていこうとする姿勢はむしろ好ましく、語り口には味わいもある。

私が「企業の本質」で示したところは、取引費用が存在しない場合には、企業が存在する経済的理由はない、ということである。また、「社会的費用の問題」で私が示したことは、取引費用が存在しない場合には、法律がどのようなものであるかは問題にならない、ということである。というのは後者の場合、人々は生産物の価値を増加させることができる場合にはいつでも、費用なしで交渉して、権利を獲得し、分割し、結合させることができるからである。このような世界では、経済システムを構成する制度は、実体もなければ目的ももたない。チャン(Cheung)は、もし取引費用がゼロであれば、「私有財産権の仮定は、コースの定理を少しも否定することなく取り除くことができる」とすら述べているが、彼は言うまでもなく正しい。また、取引費用がゼロという仮定のも一つの帰結は、通常気づかれないのであるが、取引を行うのに費用がかからないのであるから、それをスピードアップするのにも費用がかからないということになり、永遠が一瞬のうちに経験されることになるのである。(第一章「企業・市場・法」p32)

また、こんな指摘も、とても読ませる。

政府は、行政的決定によって、生産要素の利用者に影響を与えることができる。そういう意味で、政府は超企業(super-firm)である(ただし、かなり特殊な種類のものではあるが)。しかし、普通の企業は、その活動がつねにチェックにさらされている。というのは、より少ない費用で同じ活動を遂行するかもしれない他企業との競争があるからである。また、管理費用があまりに大きいときには、企業内での組織化に代えて、いつでも市場取引という代替手段をとることができるからでもある。政府は、必要とあれば、市場での取引を完全に回避できるが、しかしこれは、普通の企業には、決してできないことである。企業は、利用する生産要素の所有者から、市場で合意を得なければならない。政府は、財産を徴用したり差し押さえたりできるだけでなく、特定の用役以外には生産要素の使用を禁じるといった命令を下すこともできる。こうした権威主義的方法は、(組織化を行う人々にとって)かなりの程度まで、煩わしさを減殺する。しかも、政府は、その規制の遂行を確実にするための警察、その他の法執行機関を、掌中に有している。
明らかなことだが、政府は私的組織(ないし、特別な政治的権力からは無関係な組織)よりも少ない費用で事をなし得る力をもっている。ところが、政府の行政機構は、それ自身、費用なしには動き得ない。ときには、実際、この費用は極端に大きな額になり得る。そのうえ、政府は、政治的圧力を受けやすく、競争によるチェックなしに作動する。このように誤りを免れない政府が設けた制限規制や区域規制が、つねに、そして必然的に、経済システムの作動の効率性を高めると考えることには、なんら根拠は存在しない。しかもそのうえ、広い様々なケースに適用しなければならない一般的規則については、それが不適切であることが明白な特定のケースにおいても、執行されようとすることがあるだろう。こうした点を考慮すると、政府の直接規制のほうが、市場や企業によって問題が処理される場合にくらべ、より好ましい結果を生みだすとは必ずしも主張できないことになる。もっとも、それと同等に、こうした政府の管理規制によっては経済的効率性の改善は達成されえないとする主張にも、なんら根拠は存在しない。(第五章「社会的費用の問題」p203-204)

コースはすぐれた教師で、その教えはあとからじわじわ効いて来るというたぐいのものなのかもしれない。


目次:
第一章 企業・市場・法
第二章 企業の本質
第三章 産業組織論―研究についての提案
第四章 限界費用論争
第五章 社会的費用の問題
第六章 社会的費用の問題に関するノート
第七章 経済学のなかの灯台

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ロナルド・H・コース
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