読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジル・ドゥルーズ『スピノザと表現の問題』(原書1968, 訳書1991)

プロテスタント(長老派)で神学者佐藤優さんは哲学者とくにスピノザが嫌い。マルクスはよくてスピノザはダメ。ライプニッツはよく引用しているので比較的好ましい哲学者に入りそう。どうしてなのかいまひとつ分からないが、スピノザ神学者としての第一の論敵としてみているのだろう。マルクスは資本主義社会を読み解くのに非常に力があり、ライプニッツモナドの視点から人間と社会を読み解くのに力があるが、スピノザは佐藤さんの立場からしたらまったく役に立たない哲学者といったところだろうか? 無神論決定論と機械論。ドゥルーズの論考は神学者に嫌われそうなスピノザの思想を徹底的な読解で明瞭に浮かび上がらせてくれている。

スピノザによれば、と同様に意味をもたないからである。自然の中にはも存在しない。スピノザはたえずそのことを思い出させる。「もし人間が自由なものとして生まれついたならば、自由である間、善や悪についてどのような概念も形成しなかったであろう」。スピノザ無神論の問題は、それが有神論―無神論の勝手な定義に依存しているかぎり、ほとんど無意味である。従って、この問題は大部分の人たちが宗教的な観点からと呼んでいるものに従ってのみ提起されうるのである。すなわち、この善の理由(ratio boni)と不可分であり、道徳律によって処理し、そして審判者として振舞うのである。この意味ではスピノザはまったく明らかに無神論者である。つまり、道徳的疑似法則はわれわれの誤解を自然法則に応じて加減しているだけである。報いや罰という観念は行為とその結果との間の真の関係についてのわれわれの無知だけを示しているのである。は非十全な観念であり、われわれが非十全な観念をもつかぎりにおいてのみ、われわれによって考え出されたものである。
しかしも存在しないということは、あらゆる差異の消滅を意味するのではない。自然のうちにはも存在しない。しかし存在するおのおのの様態にとってよい、わるいがある。との道徳的対立は消滅するが、この消滅はあらゆることを平等にすることでも、あらゆる存在を等しくするものでもない。ニーチェが言うように、「善・悪の彼岸へ、このことは少なくとも、よい、わるいの彼岸へを言おうとしているのではない」。活動力の増大と減退は存在する。よい、わるいの区別が真の倫理的な差異にとって原理となるだろう。そしてこれが偽りの道徳的対立にとって代わらねばならないのである。
(第Ⅲ部「有限様態について」第15章「三つの秩序と悪の問題」p263-264) 太字は実際は圏点、斜体は実際は傍点

天国があり善悪があり選別もある世界と考える人と能動と受動の力学という視点で世界を考える人とは相容れない。どちらもとびきりの知性なので双方ともに関心をもって著作を読むが、スピノザ無神論とその読解者のほうがしっくりくる。また、佐藤さんは何故にそんな取り合わせの趣味嗜好なのと興味は尽きない。しかしながらスピノザ好きでプルーストベケットが好きなドゥルーズのほうに私は強く憧れる。好きな小説家として佐藤さんはミラン・クンデラ(1929~)を上げていたりもするけど、そこは米原万里さんもいっていたように納得はできない。同世代の小説家でいったらイタロ・カルヴィーノ(1923~1985)のほうが圧倒的に小説に愛されているでしょう。まあ、趣味が違う人がすばらしい活躍をされていることが何より刺激になっているので、それぞれの趣味を貫くというのは必要なことだろう。神ということを扱うとどうしても佐藤優の言説が頭に浮かんできてしまうので、こういった感想となった。

 

目次:

序論 表現の役割と重要性

第Ⅰ部 実体の三つ組
 第1章 数的区別と実在的区別
 第2章 表現としての属性
 第3章 属性と神の名称
 第4章 絶対者
 第5章 力

第Ⅱ部 平行論と内在性
 第6章 平行論における表現
 第7章 二つの力と神の観念
 第8章 表現と観念
 第9章 非十全性
 第10章 デカルトスピノザ
 第11章 表現の内在性と歴史的要素

第Ⅲ部 有限様態について
 第12章 様態の本質、無限から有限への移行
 第13章 様態の存在
 第14章 身体は何をなしうるか
 第15章 三つの秩序と悪の問題
 第16章 倫理的世界観
 第17章 共通概念
 第18章 第三種の認識に向かって
 第19章 至福

結論 スピノザにおける表現の理論(哲学における表現主義

スピノザと表現の問題 〈新装版〉 | 法政大学出版局


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