読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

山鳩よみればまわりに雪がふる 高屋窓秋(1910-1999)の言語への嫉妬 安井浩司「高屋窓秋論への試み」(1976)

個人的には安井浩司は現代俳人の中でトップの人と思っている。たとえばこんな句を作ってしまう人だ。

 

今日もきて厠を知れる黒揚羽 (『霊果』1982)

 

その気になる俳人が、高屋窓秋の句作を芭蕉が驚愕するだろうものとして取り上げている。普通に考えればとてつもない言挙げだ。

 

芭蕉が生きて正岡子規山口誓子・西東三鬼、そして昨今の俳句と邂逅することがあったとすれば、改めて知らされることはあっても、特に驚くことはないだろう。だが、「山鳩よみればまわりに雪がふる」に出会ったとき、はじめて彼はある興奮を催すような気がする。この言葉の起こし方は何だ。俳句とはこういう書き方もあったのか。それに比べて、自分は何と重たい生活をぶら下げて描いてきたことだ。ここには自分がまったく知らなかった言葉がある。自分が苦心して射ようとした俳句の的をやすやすと抜いている。俳句でないところに俳句が立っているようだ。俳句が、思いもしなかった言葉で、こうも軽々と書き起こされてしまうとは。ところが、自分は俳句のために俳句を生活し、いたずらに言葉を重くしてしまった。そればかりか、俳句生活の重さと等しい重量の言葉を通してしか俳句が見えなくなっていた。言葉を洗い、言葉を軽くしようと旅に出たものの、それは所詮、俳句の旅にしかすぎなかった。自分は生涯、俳句を地上者の論理で語ることを抜け出ることは出来なかった。芭蕉は嫉妬の情を浮かべて、このように思いはじめるかもしれない。(安井浩司『海辺のアポリア』所収「高屋窓秋論への試み」p213-214)

 

勢い余ってしまっている感じも受けるが、安井浩司はおそらく本気で書いている。そんなことを書かせてしまう高屋窓秋の俳句を、いま、激しく、まとめて、読みたい。一番軽く、一番自由に近い言葉。しがらみをいちばん抜け出た言葉。

 

高屋窓秋、一番の代表作は

 

頭の中で白い夏野となつてゐる

 

この白い夏野に透明な幻影をぶちまけてみたい。

 

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安井浩司

1936 -