読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

デイヴィッド・ヒューム『自然宗教をめぐる対話』(原書1779, 岩波文庫2020)

ヒューム(1711~1776)の遺稿。友人のアダム・スミス(1723~1790、『国富論』『道徳感情論』)に遺言で出版を依頼したものの、アダム・スミスがその内容に躊躇して出版をためらったいわくつきの作品。生前ヒュームは無神論者・不信心者と非難され、職につけなかった経緯もあるが、本人ははっきりと無神論者と名乗ることはなかった。また、この作品の内容も三人の登場人物の宗教観のいずれかを特権視するようなものになることは巧妙に避けられている。

作品は登場人物以下三人による対話篇の形式をとっている。

正統派のデメア:ア・プリオリな論証。神学者
懐疑主義者のフィロ
自然宗教のクレアンテス:ア・ポステオリな論証。理神論者。


一般的には「懐疑主義者のフィロ」が一番ヒュームに近い意見を述べているとされるが、他二名の登場人物にもヒュームの意見が仮託されている様子も見られるということで、正統な解釈というのは存在していないようだ。


私が読んだ印象でいえば、やはり「懐疑主義者のフィロ」をベースに会話の進行を味わうのがベストな感じがする。ただ、他二名の発言もたんに貶められるためだけに用意されたものではなく、個々に味わうべき魅力もある。後味はすっきりした感じではなく、複雑な余韻が残ることさえ納得できれば、すぐれた対話劇として記憶できると思う。
さらに踏み込んで、一番ヒュームのストレートな意見を捜すとするならば、第12章の原注に目を止めておくのがいいのではないかと今のところ考えている。

懐疑論者と独断論者の争いは、完全に、言葉の争いであることは明白であるように思われます。あるいは少なくとも、それが、疑いや確信の程度だけに関わる争いであるのは、明白であるように思われます(こうした点については、わたしたちは、どんな推論も許すべきです)。こうした争いは、一般には、根底において言葉の争いであり、どんな正確な決定にいたることも不可能です。〔一方において〕どんな哲学的な独断論者であっても、感覚にもすべての学問にも難点があり、そうした難点は、通常の論理的な方法では絶対に解決不可能であることを否定しません。〔他方において〕どんな懐疑主義者であっても、そうした難点はあれども、わたしたちはあらゆる種類のテーマについて考えること、信じること、推論することが絶対に必要であり、しかも、往々にして自信と安心をもって断定することさえ絶対に必要であることを否定しません。そうであるとすれば、これらの二つの学派(もし、その名前に値すればですが)の唯一の違いとは、懐疑主義者は、習慣・気まぐれ・性向にもとづいてとりわけ難点を強調し、独断論者は、同様の理由にもとづいて必要性を強調するという点だけなのです。(p197-198)

この原注もどこかしら劇中のナレーションのようにも感じられ、本当のところそれも含めてのフィクション・対話篇ということになるのかもしれない。ただ、そうであっても作品の味は、なかなかいいと思う。


デイヴィッド・ヒューム
1711 - 1776
犬塚元
1971 -