読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

松岡正剛『日本文化の核心 「ジャパン・スタイル」を読み解く』(2020, 講談社現代新書)

凄腕編集者の松岡正剛は読者の好奇心に火をつけていく技をいくつももっている。やはり一番すごいのは千夜千冊の尖った著作紹介だが、今度の講談社現代新書の日本論も、著者が自身の日本論の集大成と位置づけているだけの良さは十分にある。個人的には第一〇講「或るおおもと 公家・武家・家元。ブランドとしての「家」について。」が一番読んでいて慌てそうになった、これは島崎藤村『夜明け前』ほか)を読まなくちゃとはっきりと思わせてくれた。

ほかには、第五講「和する/荒ぶる アマテラスとスサノオに始まる「和」の起源。」が日本文化の根っこ部分を見事に浮き上がらせてくれていて、大変刺激になった。

「すさぶ」は「遊ぶ」と綴ってもスサブと読みました。もともとの「すさぶ」は「荒ぶる」「荒れる」「綻びる」「壊れる」といった行為を示す自動詞でしたが、日本人はこの言葉に「遊ぶ」という字も当てたのです。
こうして「すさぶ」と「あそぶ」は重なり、何か別のことに夢中になることがスザビとして認識されました。今日でも仕事に対して遊びがあり、なすべき中心から逸れて気の向くままに何かをするのが、遊びであって、荒ぶということです。中心で荒べば和を乱しますが、どこか別のところで熱中するなら、これはスサビ(遊び)です。
この解釈はスサノオ高天原から逸れて出雲で国づくりに夢中になっていったことにつながります。
(第五講「和する/荒ぶる」p116)

いまの世界でのなすべき中心は家にいること。中心課題が各方面に浸食して別のところがどんどん縮小されていているように感じるけれども、頭の中の仮想の世界はそこそこ通常モードで機能している。なので、私の世界で勝手にスサノオ化して、そこでのモノづくりクニづくりに遊び励むのが現時点では文化的っていうことになるのだろう。荒ぶるってことになるのだろう。

 

目次:
第一講:柱を立てる
第二講:和漢の境をまたぐ
第三講:イノリとミノリ
第四講:神と仏の習合
第五講:和する/荒ぶる
第六講:漂泊と辺境
第七講:型・間・拍子
第八講:小さきもの
第九講:まねび/まなび
第一〇講:或るおおもと
第一一講:かぶいて候
第一二講:市と庭
第一三講:ナリフリかまう
第一四講:ニュースとお笑い
第一五講:経世済民
第一六講:面影を編集する

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松岡正剛
1944 -