読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

國分功一郎『スピノザの方法』(2011 みすず書房)

「説得というモーメントに引きずられている」デカルト(p141)と「説得に無関心で、説き伏せることのないスピノザ」(p355)という視点。

 

國分功一郎は『暇と退屈の倫理学』(2011 朝日出版社)でウィリアム・モリスを引きながら「人の生活はバラで飾られていなければならない」(p349)といっていたが、彼の著作のなかではいちばんバラっぽい作品。2004年に書いた論文が否定され、2008年に再提出され受理された博士論文を改稿したのがこの『スピノザの方法』。個人的には『中動態の世界』も『暇と退屈の倫理学』も『来るべき民主主義』もどことなく温室栽培のチューリップのような取り澄ましたおぼっちゃま感があって隔たりを感じてしまうのだが、本作品は余裕のないところで咲いている野生のバラのようで、ほのかに美しい、愛らしいと感じる。

 一言で言えば、スピノザの疑問はデカルトの考える観念が表象〔repraesentatio〕であることに向かっている。では、観念が表象であるとはどういうことか。それは観念の原因が実在に求められているということ、観念に実在と因果関係を取り結ばせているということにほかならない。
 表象論的観念思想はデカルト哲学を貫く要請のひとつ、説得の要請から切り離せない。そのことは神の存在証明において鮮明に現れている。デカルトにはア・プリオリな証明の妥当性はよくわかっている。だが、その証明はけっして人を説得しない。それはすでに神の存在を受け入れている人に、あらためてその存在の確証を与えるものだからだ。それゆえ、デカルトはア・ポステオリな存在証明を前面に押し出す。そしてア・ポステオリな存在証明のためには表象論的観念思想が絶対に必要である。かくしてデカルト哲学の一貫性、そしてそれに対するスピノザの疑問の一貫性が明らかになる。
 スピノザがみずからの方法の実現のために必要とした観念思想の方向性がここから理解できる。それは観念の原因を実在に求めないという意味での脱表象論的観念思想であり、また説得に対する無関心に貫かれているはずである。
(「第二部の総括」p250-251)


デカルトのコギトについては柄谷行人が「思うわ、ゆえに、あるわ」と関西弁に訳すことを提唱しているけれども(柄谷行人『世界史の実験』p97-103 岩波新書, 2019)、スピノザが定式化し直した「私は思惟しつつ存在する〔ego sum cogitans〕」は順番が存在先行に逆転してしまうけれども「あるわっておもうとるわ」と訳し直してみたい。記号だけで表現するとたぶん「!?」だ。それが思考で至高ってことでいいんじゃないかと専門家じゃない私は今のところ思っている。

 

目次:

序章 方法という問題

第一部 ふたつの逆説 
第一章 方法の三つの形象 I
1 道具 ――哲学におけるソフィズムの問題
2 標識  ――哲学における説得の問題
第二章 方法の三つの形象 Ⅱ
1 道 ――方法の逆説
2 道 ――方法論の逆説
第一部の総括

第二部 逆説の起源
第三章 スピノザデカルト読解 I
1 「スピノザの思想」、「デカルトの思想」
2 コギト
3 循環
第四章 スピノザデカルト読解 Ⅱ
1 四つの操作
2 規則と順序
3 並べ替えの意味
4 観念と実在
第五章 スピノザデカルト読解 Ⅲ
1 分析と総合
2 第二のア・ポステリオリな証明
3 第一のア・ポステリオリな証明
4 ア・プリオリな証明
第二部の総括

第三部 逆説の解決
第六章 スピノザの観念思想
1 道について、ふたたび ――方法の逆説の解決
2 方法書簡 ――方法論の逆説の解決
3 「与えられた真の観念」
4 定義、十全な観念、虚構
第七章 スピノザの方法
1 『エチカ』という書物
2 定義と公理
3 冒頭諸定理の証明手続き
4 冒頭諸定理の証明対象
5 神の存在証明
6 系譜学、観念の構築、状態の描写 ――『エチカ』と『デカルトの哲学原理』
第三部の総括

結論 スピノザの方法からスピノザの教育へ

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國分功一郎
1974 -