読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』(2005, 光文社新書)

仲正昌樹は人文系の教師として優れた入門書を数多く出版している。新書のため比較的分量軽めに書かれているが、本書も情報を手に入れるには有効な著作となっている。対象をかみ砕いて丁寧に紹介することを普段から志向しているようで、仲正本人の主張や思考の方向性を本文からあまり強く感じとることはなかなかないのだが、本書では日本の思想家を扱っていることもあって、普段よりも趣味嗜好といったものが行間から立ちのぼってくることが多いように感じた。

 物象化論を軸として、それまで”純粋にアカデミックな哲学”とは異質なものと思われていたマルクス主義を、ドイツ観念論現象学などの言語と接続可能にした点で廣松の業績は大きい。かれが開拓したアプローチのおかげで、必ずしも政治的行動を好まないアカデミックな哲学を志向する人たちも、認識論や行為論のテクストとしてマルクスを読むという傾向が生まれてきた。その意味でもアドルノ的な役割を果たしたたわけである――廣松自身は、どういうわけかアドルノについてはあまり語っていない。彼の影響は、直接の哲学的な弟子である倫理学者の大庭健(一九四六-)や熊野純彦(一九八五-)だけでなく、社会学の代表的な論客である大澤真幸(一九五八-)や宮台真司にも及んでいる。
 しかし、物象化の問題を哲学的に掘り下げすぎたため、マルクス主義的な実践によって除去すべき”悪しき物象化”と、人間が言語・記号を操る社会的な存在である限り除去しようがない”根源的なレベルでの物象化”の間の境界線をどこで引くのかという問題が出てきてしまい、彼と弟子たちは理論的に袋小路に入っていく。民族や言語ごとに、あるいはジェンダーセクシュアリティによって異なる物象化の諸形態を均(なら)して、より普遍的な文化を実現することができる”ポジティヴな物象化”へと転換することは可能か、といった問いに対してははっきりと回答することができない。
(第三章「マルクス主義という「思想と実践」」p180)

「諸形態を均して、より普遍的な文化を実現することができる”ポジティヴな物象化”へと転換することは可能か、といった問い」というのは仲正本人ももっている問いであるはず。自身の思想的な中心課題をはっきりと押し出すということをあまりやっていない人だと思うので、本書はいつもより親近感をもって読めた。論考の対象となった各思想家に対しても、その限界らしきものを指摘することはあっても、基本的に参照すべき先達や同時代人としてどちらかといえば評価しているところにも好感が持てる。ただ、あとがきの単純対立者に対する荒っぽい口調はいつものことで、そこはなんども書かないでも大丈夫です、とは思う。

末尾の資料として、ドイツと日本の戦後思想の業績を比較して見れる年表が掲載されている。それを見るとドイツにくらべて日本のほうがどうしても小粒に見えてしまう。これは、なぜなのだろうと考えてみたところ、ドイツは講義録や論文・講演が多く、日本は一般書が多いことが影響しているのではないかと思った。大学の講師や教授としての業績が日本側はあまり出てきていないのではないだろうか? 日本の大学の人文系の先生たちにはもっとすぐれた業績を求めてもいいのではないかと思う(=論文ちゃんと書いてくださいm(_ _)m )。また、それとともに優れた業績を生みだしやすいようなポジションを作っていくことも重要だと思う。

 

仲正昌樹
1963 -