読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

柄谷行人 「「アメリカの息子のノート」のノート」(1968, 『柄谷行人初期論文集』2002, 『思想はいかに可能か』2005)

コロナ禍の下、アメリカでの差別抗議デモが広がるなかで、初めて手に取ったデビュー以前の柄谷行人の論文集のジェームズ・ボールドウィン論に立ち止まる。

たとえば、いま現に不正がありそれに対して闘わねばならないとき、そこから退いて思索する思想家の「責任」は、根底的(ラディカル)に世界をとらえること以外にはない。(『思想はいかに可能か』p105)

これは、自身が理論家であることを選択し、理論家であることの務めを明瞭に示した目を見張るテキストである。本論では「異神を求めて」(1934)などにあらわれる批評家としてのT・S・エリオットの理論の弱さや誤解を批判しながら、それとは異なる理論的強度を持つにいたったボールドウィンマルクスの論をしかと見るべきであると宣言される。

簡潔にいってしまえば、黒人や白人の総体としての「共同性」の自己疎外として黒人問題(したがって白人問題)をとらえようとするボールドウィンが私に感じさせるのは、ユダヤ人でありながらそのことを全く介意していないようにみえるマルクスの「ユダヤ人問題」のとらえかた、共同性としての人間のとらえかた、人間の関係を個人的な恣意をこえた関係としてとらえるそのしかたにうかがわれる一種の非情さである。(中略)個人的な意志(「憎悪や絶望」)の位相と、意志をこえた関係や構造の位相を明確に区別し、また持続しようと決意である。(『思想はいかに可能か』p101)

ひとつの国家や民族の共同性の枠内に回収されてしまう視線や議論ではなく、複数の国家や民族の相克として現れる諸現象を分析し、普遍的な理論の強さを志向しなければならない、という意志の力が見えてくるような文章。

マルクスのテーゼ、「(政治的)国家の死滅」は、おそらく「民族の死滅」を伴うものであり、逆に、「民族の死滅」は「国家の死滅」を志向することなくしてありえない。日本人のわれわれには想像もつかないような道程が、萌芽的にアメリカの中に見出される、とすれば、アメリカの「人種問題」は、われわれにとって原理的な関心をひくに足るのである。(『思想はいかに可能か』p126)

市場、国家、共同体にかわるものとしてのアソシエーションを提示する後の柄谷行人の原点というか核の部分を、半世紀以上前のこの論文からは感じとることができ、そのことに一読者としては感動とともに畏れに近いものを感じる。初発の時点で、国家の揚棄や民族問題の解消ということがどれだけ困難なものであるかを認識しながら、幻想に陥ることなくぶれずにラディカルに突き進んだ五〇年にもおよぶ理論家としての歩みと、その果てに積極的に語られるようになった希望の言説については、心して向き合わねばならない。

 

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柄谷行人
1941 -

ジェームズ・ボールドウィン
1924 - 1987

カール・マルクス
1818 - 1883

T・S・エリオット
1888 - 1965