こだわりの強い吉田一穂ファンのサイバースペース上での発言には「横書きの吉田一穂なんて耐えがたい」というものが結構多いけれども、私の個人的意見としては、そんなものですかねという程度。『古代緑地』で30度のポールシフトの影響度の強さを語っていた吉田一穂(「地球を太古へと三〇度傾けた極の心軸に描かれる緯度の位相差は、現亜寒帯の凍土や氷雪の地蔽を透して、旧温帯の燦たる緑地を現像する」)ではあるが、彼の詩作品はべつに90度軸転換したところで、その価値が劣化するていのものではないと私は思っている。そもそも縦書きである必然性に賭けている詩人ではないだろう。なにしろ、いまではTwitter上に吉田一穂botもいるくらいだ。縦書きでしか伝わらないと思っているようでは、こんなものは現われない。
澁澤龍彦も絶賛していた代表作「母」だって、横書きで極端に伝達内容が減ってしまうということはない。
あヽ麗はしい距離(ディスタンス)、
つねに遠のいてゆく風景‥‥
悲しみの彼方、母への、
捜り打つ夜半の最弱音(ピアニッシモ)。
皆が意味内容と、音韻を記憶にとどめておくに値する傑作と考える。
ところが、高柳重信の俳句になると、横書きでは多分、そのポエジーが死滅する。
本日はじめてやってみる。
横書きの高柳重信。
私が頂点のひとつと思う行分け俳句作品。
【横書きバージョン】
孤島
に
て
浪
の
呪
ひ
の
孤
閨の
公
主
転写していて、もしかしたら津波があらわれるかもしれないと期待したが、惜しいかな、縦長すぎて水の量感を感じるのにはやはり無理があった。でも、波頭の硬さのイマージュはちょっと捨てがたい。
【縦書きバージョン(原型)pタグバージョン】
閨孤 の浪 孤
主公の のひ呪 てに 島
※ちょっと違うバージョンで調整
【縦書きバージョン(原型)preタグバージョン】
閨孤 の浪 孤 主公の のひ呪 てに 島
高柳重信の行分け俳句はアポリネールの視覚詩にちかいので形が重要なのだ。こういう詩の形式表現は、はじめから映像詩として作られているなら話は別だが、なかなかサイバー空間上では拡散しない。活字同士やスペースの配分、適用フォントの適否などもあって、縦書き紙媒体が今のところいちばんフィットしている。
※転写してはじめて思いついたが、右側の「孤島」側に波が向かっているみたいだ。
ほかに、横書きで読むのが辛いだろうなとおもうのはルビや割注を表現技法として積極的に取り入れて以降の吉増剛造の詩。彼の詩は翻訳されて海外でも読まれているということで横書きでもどうにかなりそうな気もするが、味わいは変わるだろうなとは思う。そもそも縦書きでも無理という人も多いと思うので、そこは好みになるのだろうか。
逆に、縦書きは無理というのは水村美苗の『私小説 from left to right』。英語独裁の世界に対する批評が薄まってしまうし、やはり縦書きだと作品印象が大きく異なってくるだろうと思う。
吉田一穂
1898 - 1973
高柳重信
1923 - 1983