読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

ジャック・デリダ『「幾何学の起源」序説』(原書 1962, , 青土社 1988)

デリダの序説はフッサール論であるとともに、ジェイムズ・ジョイス論という側面を持っている。ジョイスを論ずるのにヴィーコを持ってきたベケットと、フッサールを持ってきたデリダ。これまでデリダは苦手で、お付き合いするのをためらうことが多かったのだが、最悪と終わりのない終わりをさまようベケットと至高と始原ににじり寄るデリダというカップリングのイメージを持てたことで、すこし親近感が持てるようになった。

ひとは過去の生成と隠蔽のある深さをつねに証言している複義性を前にして、文化の記憶を、一種の(ヘーゲルの意味での)想起 Erinnerung のうちで引受け、内面化したいと思うとき、二つの試みのいずれかを選ぶ自由がある。ひとつはJ・ジョイスの試みに似ている。すなわち、世界内的文化の全体によって、それらの諸形式(神話、宗教、科学、芸術、文学、政治、哲学、等々)の最大の天才性において、個々の言語的原子、個々の言葉、個々の語、個々の単純命題の塊のなかに埋もれ、蓄積され、混じり合った諸志向の最大の潜勢力を、可能な最大の共時態に水平化する言語のうちで、複義そのものの全体性を反復し、これを引受けること。(中略)他の極は、フッサールのそれである。すなわち、経験的言語を、その一義的かつ翻訳可能な諸要素の顕在的透明性に到るまで方法的に還元ないし貧困化し、これによって、事実におけるいかなる歴史的全体性もそれ自身では私に引渡すことはなさそうな、そして――通常の意味での――あらゆる歴史哲学およびあらゆる精神現象学の場合と同様に、ジョイス流のあらゆるオデュセイア的反復によっていつもすでに前提されている歴史性ないし伝統性を、その純粋な源泉において取戻そうとすること。(p150-151 太字は実際は傍点)

水平的なジョイスと垂直的なフッサール。複義性を追求するジョイスと一義性を追求するフッサール。しかし複義性は一義性の地平のなかでしか生まれえず、一義性もまた複義性のなかでしか露呈しないということが指摘され、対局にあると思われていた二人が言語実践の強度の点で結びつけられるような展開となっている。

 

『「幾何学の起源」序説』は、デリダの文学的な側面を比較的平明な文章で感得できる初期作品でもあった。

 

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ジャック・デリダ
1930 -2004
エドムント・グスタフ・アルブレヒトフッサール
1859 - 1938
ジェイムズ・ジョイス
1882 - 1941
サミュエル・ベケット
1906 - 1989
ジャンバッティスタ・ヴィーコ
1668 - 1744