読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

エルヴィン・シュレーディンガー『自然とギリシャ人・科学と人間性』(原書 1996, ちくま学芸文庫 2014)

教育は洗脳の側面を持っていると言われるなかで、自主的に学習していこうとする者は進んで洗脳される態勢をとっているカモのようなものなのに、相対論と量子論の洗脳はなかなかきまってくれない。古典力学の洗脳が強くて解けないので、新しい洗脳を弾いてしまう。量子論創始者たちにしてからが、疑念を持ちながらの創出なので、一般人がバッド・トリップもできずに、未消化のまま果実を排出してしまっても、それは致し方無いこと。まずは丸呑みの練習を続けるくらいしか手はないだろうか。

さまざまな観測事実は空間と時間の連続的な記述と相容れず、少なくとも多くのケースでは連続的記述は不可能であるように思える。その一方で、不完全な記述、つまり空間と時間に関して空白のある描像からは、曖昧さのない明確な結論を引き出すことはできず、不確かで恣意的で曖昧な考え方にたどり着いてしまう――それはどんな犠牲を払ってでも避けなければならない! ではどうすべきだろうか? 現在採り入れられている方法に、あなたは驚かれるかもしれない。その方法とは要するに、古典的な理想にかなうような、空白をまったく残さず空間と時間について連続的である記述――「何ものか」の記述――を与える、というものだ。しかし、その「何ものか」が、観測される、あるいは観測可能な事実であるとも言っていないし、ましてや、それによって自然(物質や放射など)の真の姿を記述するとも言っていない。むしろ、どちらでもないことを十分に了解した上で、この描像(いわゆる波動の描像)を使うのだ。(科学と人間性「付け焼き刃の波動力学」p174 太字は実際は傍点)

「どちらでもないことを十分に了解」することが前提条件ということで、居心地の悪さに慣れていくしかない。そのうち慣れるだろうと淡い期待を抱きながら、不都合な観測結果を排出しているこの世界の住人として、変なものに付き合ってみる。

代数学(ディリクレ、デデキント、カントル)を勉強しない限り、連続性の概念が精神的にとてつもない困難をもたらすことは理解できないギリシャ人はその困難に突き当たって、それを十分に認識し、心底かき乱された。そのことが読み取れるのが、辺の長さ1の正方形の対角線に対応する「数」(私たちにとっては√2)が存在しないことに対する、彼らの困惑ぶりだ。(自然とギリシャ人「イオニアの啓蒙運動」p81-82 太字は実際は傍点)

√は現代日本では中学3年生で学習して、何の不思議もなく受け入れられている。実際に使うかどうかは別にして。厳密に考えなければ、そういうものがあると常識化している。相対論も量子論もそのくらいの感覚でまずは取り込んでみたいものだ。

 

目次:

自然とギリシャ人(シアーマン記念講義 1948.05)
 古代の思想に立ち返る動機
 理性と感覚の争い
 ピタゴラス学派
 イオニアの啓蒙運動
 クセノパネスの信条、エペソスのヘラクレイトス
 原子論者
 科学の特別な特徴とは何か?

科学と人間性(ダブリン高等研究所講義 1950.02)
 生き方における科学の精神的意味合い
 真の重要性を打ち消しかねない科学の実際的成果
 物質に対する人々の考え方の根本的な変化
 基本的概念は物質でなく形である
 わたしたちの「モデル」の本質
 連続的記述と因果性
 連続性の複雑さ
 付け焼き刃の波動力学
 主体と対象との境界は崩れたとされる
 原子か量子か―連続性の複雑さから逃れるための古くからの呪文
 物理的不確定性は自由意志にチャンスを与えるか?
 二ールズ・ボーアのいう、予測を妨げるもの

 

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エルヴィン・シュレーディンガー
1887 - 1961
ロジャー・ペンローズ
1931 -
水谷淳
1970 -