読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社 2019)

中沢新一斎藤環の助けを借りつつ、3.11以降の時代にハイデッガーの『放下』を読むという内容。『暇と退屈の倫理学』で示された余暇にバラを配置する手続きの前に、荒れた心も場も整えなければならないだろうという想いに駆られての論考と受け取った。

本書で何度も引用される『放下』の中で、以下がハイデッガーが「本当に不気味なこと」と呼ぶ事態が語られる部分。

本当に不気味なことは、世界が一つの徹頭徹尾技術的な世界になるということではない。それより遥かに不気味なことは、人間がこのような世界の変動に対して少しも用意を整えていないということであり、我々が省察し思惟しつつ、この時代において本当に台頭してきている事態と、その事態に相応しい仕方で対決するに至るということを、未だに能く為し得ていないということである。いかなる個人も、いかなる人間集団も、極めて有力な政治家たちや研究者たちや技術者たちをメンバーとするいかなる委員会も、経済界や工業界の指導的人物たちのいかなる会議も、原子力時代の歴史的信仰にブレーキをかけたり、その信仰を意のままに操ったりすることはできない。単に人間的であるに過ぎない組織は、いかなる組織でも、時代に対する支配を簒奪することはできない。(辻村公一訳『放下』、引用箇所:第三講 「『放下』を読む」p190-191)

 

國分功一郎は前半部分を複数回取り上げ、省察し思惟することの重要性を説き続けながら、自身が考える姿も見せてくれていて、たしかに不気味さに抗ういい仕事をしてくれているなという読後感をもつのではあるが、それよりも引用後半部の「単に人間的であるに過ぎない組織は、いかなる組織でも、時代に対する支配を簒奪することはできない」の部分が澱のように残る。

 

國分功一郎に比べれば私ははるか末端のスピノザ読みにすぎないが、原子力の時代という枠組み設定のなかであれば、E=mc2は、その時代の心身並行論の一表現ではないかと思っている。c(光)を媒介にしたm(身体・延長)とE(精神・思惟)の極微の世界での並行関係。並行関係だから右辺と左辺を結びつけるのは=(等号)ではない新しい記号が必要な気もするが、そうであればどこかの専門家にあたらしい論を作ってぜひお聴かせいただきたい。しがない賃金労働者なので、パトロンにはなれませんが、応援はさせていただきます。=(等号)で押し通す場合の案としては、社会的活動のなかで生ずるm(質量を持つ物質としての身体)の極小の質量変換の総体が生命の重みという主張で、個人的には物理学の世界とも神秘性なしに手を打てるはずと思っているが、いかがなものか? 光速に近い運動をしているほど質量は重くなるとアインシュタインは言っているし、身体はどの極小部位であっても静止していることはないので、完全な静止質量と生命活動を行っているときの質量の差が、生命や精神の重さ・質量であるといっても、物理学的な近似の世界解釈からは激しく逸脱はしないだろうと思ってはいるのだが……  これは、あくまで個人的な思い付きであり、人に無理に同意を求めたりはしない、たんに言ってみたかっただけのパラグラフ。

※断り書きするまでもなく、全篇言いたいこと垂れ流してるだけでした。すみません<(_ _)>

※この際、ついでにごく個人的な國分功一郎氏に対する要望。ハイデッガーよりもスピノザをベースにした議論を希望します。言語論はギリシャ語なんかでなく日本語でやって頂くとより萌えます。紀貫之菅原道真が個人的にはツボ。世阿弥も高まる。時代はくだるけれども芭蕉でももちろん可。二十一世紀・令和の世界で安井浩司を哲学者が語ってくれたら、泣いてしまうかもしれない。千葉雅也氏のほうにより可能性を感じるところではありますが、現代の九鬼周造といったところになっていただきたい。

 

一般的に原子力の問題は、E=mc2のE(エネルギー)の部分にm(質量)の特殊形態である生命にとって有害あるいは過剰な形態のものが含まれ、それを制御するには技術的にもコスト的にも有効な策がないということで、状況としては原発事故が起こるまでは一種の先送りで問題を封じていたというところになるだろう。また、事故後の運転再開については電気の安定供給と資源の調達経路のバランス、原子力経済の慣性の圧、また政治的な各種潜在的カードの維持などによるだろう。思惟することは決定的に重要であるということに理解はあるつもりだが、思惟だけでは止まらない現実の運動の力にはやはり流される。流された状態で、思いもかけない外部から、また別の災害や現下のパンデミックのような形で、突然ブレーキがかけられたりすると、各種慣性の力があったことをあらためて感じ、普段以上の重力を感じながら、減速のなか放心したりする。目の前の最悪の状態をやり過ごせば、再加速するのは必然でもあるが、まだ放心の感覚が残り、低速の状態が続いている中で、いつもより変化に開かれている状態をすこし維持しておいたほうが二次災害、二次被害は少なくなるような気がしている。澱のなかで息をひそめているというのは、ある種屈辱的な状態なのかもしれないが、意志による事態克服の活動とは異なる生活態度の再考を伴う個々人の日々の対処の仕方は、ハイデッガーのいう「開かれ」や「放下」により近い状態にあるのかもしれないと考えたりもする。

 

目次:

第一講 一九五〇年代の思想
1 原子力を考察した二人の思想家
2 核技術を巡る一九五〇年代の日本と世界の動き
3 ハイデッガーと一九五〇年代の思想

第二講 ハイデッガーの技術論
1 技術と自然
2 フュシスと哲学

第三講 『放下』を読む
1 「放下」
2 「放下の所在究明に向かって」

第四講 原子力信仰とナルシシズム
1 復習――ハイデッガー『放下』
2 贈与、外部、媒介
3 贈与を受けない生
4 結論に代えて

付録 ハイデッガーのいくつかの対話篇について──意志、放下、中動態

國分功一郎『原子力時代における哲学』(晶文社 2019)
https://www.shobunsha.co.jp/?p=5494

國分功一郎
1974 -
マルティン・ハイデッガー
1889 - 1976