読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

吉増剛造『我が詩的自伝 素手で焔をつかみとれ!』(講談社現代新書 2016)

詩人吉増剛造の自分語りを同じく詩人の林浩平が聞き手となって文字起こしした一冊。詩人の誕生から、出版時点での最新作『怪物君』までの全体像を見て取ることができる。「疾走詩篇」(『黄金詩篇』収録)などの勢いのある詩を書いていた40歳くらいまでの作品は、個人的には書きすぎているという印象があって、肌に合わないというか関心があまりない日本詩人だったのだが、『熱風』前後からは、読点や改行、ルビや割注、アルファベットやハングル文字、カタカナの多用などにより、引っかかりの多い詩になっていて、これ以降、これは果たして詩なのだろうかという違和感とともに魅力もより感じるようになってきている。普段の語りと詩を読んだときの印象がそれほど変わらないんじゃなかろうかと思わせるところもあり、独特ではあるけれども文学者としていいものかどうか本書を読んでも判断はつきかねている。教祖の御筆先をまつりあげるという趣味はもっていないので、誰かの乾いた批評で詩人の価値を再確認してみたい。吉増剛造は真似しようとしてもうまくいかないだろう典型的な詩人で、詩作品そのものよりも、詩に到達するまでの普段の言葉との関わり方を参考にしたほうがよいと私は思う。

 

詩作するときの精神的な部分が表明されている箇所:

僕の精神というのは、自分でも、臆病で、引きこもりがちで、少し狂的で、「受動的統合失調症」なんて言うけれども、それさえも怪しげな言い方でって、常に何かが立ち上がったときにそれに対する否定精神というのが働くの。否定して、それを逆のほうへもっていこうとする力動。(中略)「詩作」のときのほとんど狂的な志向生成の道にその「否定」が働いていて、ほとんど自分にも「我」は信用が出来ない、「主体」なんてあり得ない、もしかしたら「野放図」といわれても仕方がないような仕草で「詩」の「道」をさがしているのね。
(第五章 「言葉の「がれき」から」p298)

吉本隆明の散文作品をくりかえしカタカナ変換しながら書き写しているなかで感覚にゆらぎが生じたことの表白部分:

吉本隆明さんの『言語にとって美とはなにか』を「怪物君」で写しています。途中からそうなったけれど、平仮名漢字まじりの普通の文章をほとんど片仮名で写しています。それから横文字は平仮名に逆にしてやってる。そうすると、石川九楊さんが言った「筆触」なんていう以前に、惑乱が不断に生じるのよ、書き写しているときにね。(p282)
(中略)
最初は、こんなばかなこと、と思ってたのに、何かすごい宝の山だなあ。何かこう新しい蟲になったような感じでさ(笑)。「文字の蟲」になるというのよりも、蟲さんたちの運動本能に似たもの(反応)をヒトの本能にもみいだしながら、もっとヒトの行動、……「行動」というよりも僕はほとんど無意識に「仕草」「挙動」という言葉を使うのですが、そう、振舞い、舞いに近いような「仕草」「挙動」を筆記に持ちこもうとする不断のこころみのことですね。(p301)

各章の扉にカタカナ変換された吉本隆明の文章のノート・原稿の写真がつかわれていて、それを見るためにだけでも本書は手に取ってみる価値はある。蟲になった吉増剛造の感覚の痕跡が残った、噛み傷のような、蟲食いの平面がもたらす衝撃。

 

目次:
第一章 「非常時」の子
第二章 詩人誕生
第三章 激しい時代
第四章 言葉を枯らす、限界に触わる
第五章 言葉の「がれき」から

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吉増剛造
1939 -
林浩平
1954 -