読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

大江健三郎『読む人間』(集英社 2007, 集英社文庫 2011)

大江健三郎の読書講義。

2006年に池袋のジュンク堂で行われた6本の講演と、同じく2006年に映画「エドワード・サイード OUT OF PLACE」完成記念上映会での講演に手を入れて書籍化したもの。執筆活動50周年記念作。

現代日本の読書人であれば一冊くらい大江健三郎は読んでおいた方がいいと思う。本書は、デビュー作の『奇妙な仕事』から出版時点での最新作『おかしな二人組』まで、大江健三郎自作を語るという側面もあるので、作家の全体像に触れるにはもってこいの一冊となっている。取りつきにくい大きな剛体の、規格外に濃くて不可思議な存在観が封じ込められている感じ。基本的に封じ込められたままなのだが、読書や言葉に対してののめり込み方は、まともに受け止めると相当のショックを受ける。9歳のマーク・トウェインハックルベリー・フィンの冒険』からはじまって、T・S・エリオット『四つの四重奏』、エドワード・サイードの『「後期のスタイル」について』まで、繰り返し繰り返し読み込みながら、自作を書き、生活しているさまは、作品同様、畏敬と畏怖と困惑の複雑な感情を呼び起こす。大江健三郎はコワい人なのだ。サイードを語りながら、自分自身のことを語っているようにも思える以下文章にも、コワさの一端が現われているのではないかと思う。

《私はつねに、残されるものに興味をいだいてきた》とサイードはいっている。《私は言い表わされたものと言い表されないものとの間の緊張に興味をいだいてきていた。沈黙をあきらかに示すものとの間の、緊張に。》この意味で、沈黙はそれ自身、スタイルのひとつの様相である。《なにもいわないことのように単純ではない》とサイードは未発表のノートに書いている。《我われはメッセージと信号の人々なのだ》とパレスチナ人についてかれはいう。《無口さと間接的な表現の。》かれが音楽の控え目さ(レテイサンス)と呼ぶところのものは、その「ほのめかしをふくんだ沈黙であり」、我われにもっとも深い喜びと、また政治的なものやその他の希望のさなかでの、希望のヒントをも提供する。
さらには、《あのあてにならない故郷喪失(エグザイル)の領域》での《まず、掴み取りえないものの困難さを掴み取り、そしてそれから、とにかく試みるために前に進み出る》、その感覚を提供するのである。
(第二部 「後期のスタイル」という思想  サイードを全体的に読む  集英社版 p230-231)

本を読んだ後の緊張と沈黙の時間を思いながら、引用前半の文章に感じ入るとともに、「さらには」以下の文章とそれを書く人の実践に畏れをいだく。

 

目次:
第一部 生きること・本を読むこと
1 さようなら、私の本よ!
2 故郷から切り離されて
3 文体を読みとる、文体を作る。
4 ブレイクの受容に始まる
5 本のなかの『懐かしい年』
6 ダンテと『懐かしい年』
7 仕様がない!私は自分の想像力と思い出とを、葬らねばならない!

第二部 「後期のスタイル」という思想  サイードを全体的に読む


集英社文庫版は2011年11月出版で、東日本大震災後の2011年6月に水戸で行った講義も収録。

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大江健三郎
1935 -