読書三昧(仮免) 禹歩の痛痒アーカイブ

乱読中年、中途と半端を生きる

上村忠男『アガンベン 《ホモ・サケル》の思想』(講談社選書メチエ 2020)

訳者でもある上村忠男が読み解くアガンベンの《ホモ・サケル》プロジェクト。高名な方であるのにかかわらず、瑞々しく真摯な執筆の姿勢に頭が下がる思いがする。

アガンベンの仕事をたどるなか、ベンヤミンからスピノザへ導かれるような感触もあったので、スピノザを語りながらベンヤミンの「新しい天使」の引用で終わっていたアントニオ・ネグリ『野生のアノマリー』の復路みたいな読書にもなった。「働かないということ」について多くの示唆を与えてくれた一冊。

 

【《ホモ・サケル》プロジェクト最終巻『身体の使用』の結論部の孫引き引用】

<生の形式>、本来の意味で人間的な生とは、生きもののもろもろの種的な働きと機能を働かなくさせることによって、それらをいわば空転させ、このようにしてそれらを可能性へと開くもののことなのだ。この意味においては、観想と働かないでいることとはアントロポゲネシス[人間の発生]の形而上学的操作子であって、生きている人間をあらゆる生物学的および社会的な運命とあらゆるあらかじめ決められた任務から解放することによって、わたしたちが「政治」および「芸術」と呼ぶのに慣れている特別の働きの不在状態に利用できるようにするのである。(中略)そしてこのことのうちにこそ、哲学者[スピノザ]によると人間が希望することができるという最大の善、すなわち、「人間が自己自身および自己の活動能力を観想することから生まれる喜び」は存しているのである。
(第Ⅷ章「脱構成的可能態の理論のために」p157-158)

衣食住を成り立たせるために働くことは今のところ避けられないし、将来的に隠居生活ができるようになるかどうかもわからない。働く必要がとりあえずなくなっても、働かないで観想している日々が想像出来るかというと、本を読んでいる姿くらいしか浮かんでこない。それはそれでいいけれど、本当に「働かない」ということになっているかどうか? 隠居生活なんて純粋消費者として働くことを一方的に支援しているだけではないかと思ったりもする。

私がイメージする働かないひとは、良寛と隠居した後の伊藤若冲良寛は乞食行脚が出来なくなってからは基本的には書を書くことで地域の文化グループに囲われながら気ままに過ごしていた。若冲は隠居後いくたびも災害に遭ってからは好きで描いていた絵を売って過ごしていた。二人とも働いているという意識は持っていなかっただろう。必要な場合には自分の芸をふるまって、相手から感謝されていたに過ぎない。良寛若冲の「働かないでいること」を思いながら、自分は「働かないでいる」ことができるだろうかとぼんやりと考えてみたりする。

 

目次:

プロローグ アガンベンの経歴

第Ⅰ章 〈閾〉からの思考
第Ⅱ章 証 言
第Ⅲ章 法の〈開いている〉門の前で
第Ⅳ章 例外状態
補論  「夜のティックーン」
第Ⅴ章 オイコノミア
第Ⅵ章 誓言と任務
第Ⅶ章 所有することなき使用
第Ⅷ章 脱構成的可能態の理論のために

エピローグ 「まだ書かれていない」作品

bookclub.kodansha.co.jp

 

上村忠男
1941 -
ジョルジョ・アガンベン
1942 -