全集2には4詩集が収録。
『誤解』(1978)
『水半球』(1980)
『小鳥が笑った』(1981)
『スコットランドの水車小屋』(1982)
解説で、こちらも詩人の平出隆が「ぼくは詩が行分けであるためには、一行と一行の間のブランクが深い谷間になっていけないと思うんです」という田村隆一自身の言葉を引いて「垂直性の詩」ということを論じているのだが、収録四詩集を読み通して最も強く感じるのは、酔っぱらいの親父が酔いに任せて少し知的で艶のあるくだをまいているようだけどこれは詩なのか? という疑問だ。韻を踏んでいるわけでも新しい形式があるわけでもない日本の戦後の口語自由詩は、その場その場の行替えのことばの構成で、定義もしずらい日本の詩性を束の間出来させようと少ない手持ちの中で戦略を練っているように見える。
海の花火
消える
もの
見たさに夜空をあおぐ その
夜の夜の底に
暗闇があって
暗と闇を二分する
その光りの
消える瞬間を ぼくは
見たいのだ( 『小鳥が笑った』1981より 「海の花火」全篇 )
全集2のなかでいちばん日本語の詩として私が優れているのではないかと思ったのは、上の一篇。
本来は縦書きで、ページの下五分の四くらいが空白になっているその佇まいとともに鑑賞すべき一篇で、海の上に打ちあがる花火を堤防か浜辺のどこかから見上げるようにして味わわなければならない。一瞬花ひらく言葉の火花は、各行冒頭一字に強く現われる文字形象の配置にも気をとられながら、息をのんで接してみないともったいない。「消」「も」「見」「夜」「夜」「暗」「暗」「そ」「消」「見」。そして、
夜の夜
暗闇が
暗と闇
部分の密度が高い漢字によるX字型の形象。
すばらしい一篇だと感嘆するが、いつも同じことができるわけではないし、いつも同じことをやっていていいわけでもない。日本の行替え口語自由詩は、読者から詩なのと疑われながら、いっかいいっかい作りあげ手放していかなくてはならない。危うい作業である。
田村隆一
1923 - 1998